経歴
- 何㮚、字は文縝、并州の人、政和五年進士第一。祕書省校書郎から京畿学士提挙、主客員外郎・起居舎人・中書舎人兼侍講として徽宗に頻繁に諮問された。蘇軾との郷党の縁を問題視され知遂寧府に一時出されたが召還され御史中丞として王黼の姦邪十五罪を弾劾、王黼とその党胡松年・胡益らを罷免させた。
- 欽宗即位で御史中丞から翰林学士、尚書右丞・中書侍郎。王雲の使金報告を巡り三鎮割譲論が優勢な中、何㮚は「三鎮は国の根本、金は変詐測りがたく割いても割かなくても侵攻は来る、河北の民を棄てるのは父母の道に反する」と論争を続け、帝を動かした。
- 四道総管使を建議し胡直孺・王襄・趙野・張叔夜を任じ勤王軍を招集させたが、唐恪・耿南仲・聶昌が和議を優先し急遽これを止めさせたため何㮚は政事を退いた。金兵が城下に迫ると唐恪に代わり尚書右僕射兼中書侍郎として三省制を復活させ、康王を天下兵馬大元帥に、陳遘を兵馬元帥に、宗沢・汪伯彦を副元帥とする詔を密かに起草した。
- 京城陥落後、金の陣営に留められ、異姓の擁立が議論された際「何㮚・李若水を関与させるな」との金側の指名を受け、逆廷(張邦昌擁立)に反対して食を絶ち慟哭の末に死んだ。年三十九。建炎初、観文殿大学士・提挙玉局観として家禄を給されたが、誤国と評する声もあった。秦檜が北から帰還後にその死に様を伝えたことで大学士の追贈が確定し、家族七人が官を得た。