宋史卷三百四十八 列傳第一百七 王祖道

出自と西南開拓の毀誉

  • 王祖道、字は若愚。福州の人。進士および制科に及第、韓城尉、松陽・白馬県知事を経て司農丞、監察御史として樞密承旨張誠一の不正試験、呂惠卿の吕禧への公使物不正供与を弾劾した。司封員外郎、汀・泉・福三州知事、諸路使を経て、戸部・吏部員外郎、左司諫として陝西の兵員削減に反対したが徽宗に「依阿苟容」と評され海州知事に出された。
  • 祕書少監、福州、直龍圖閣・知桂州を経て、蔡京の開辺政策に乗じ王江の酋長楊晟免らに納土を勧め、130峒5900家10万余口の帰順を誇張して報告、懐遠軍の設置と溪峒司の運用、武臣による統治を献策した。黎人の帰順を挙げ允州・格州の新設、提挙溪峒官3員の増設、羈縻州の内附も報告し、鎮州(静海軍)の設置と海南安撫都監を提案した。南丹州の抵抗は武力で鎮圧し懐遠軍を平州、格州を從州、南丹を観州に改め黔南路を設けた。顯謨閣待制、龍圖閣直学士に進み兵部尚書に召されたが、融州張荘との共謀で海南の峒の帰順を過大報告し、実際には多くの黎人がまだ服属していない状態で反乱を招き新万安軍・観州が攻撃された。
  • 責任を問われず端明殿学士・知復州、刑部尚書を経て大観2年(1108年)没し宣奉大夫を追贈されたが、実態は官爵・金帛で夷を誘い、城邑・戍兵・輸送の負担を課し瘴癘で戍卒の5、6割が死亡するなど実利のない拡張であった。蔡京はこれを功と誇り「中原の風気を混一し天下の版図の半ばに当たる」と称えたが、張商英が相となるとその誇大な報告を糾し祖道は昭信軍節度副使に追貶された。京再輔政で復官したものの、創設した州県はほどなく廃止された。以後、龎公孫・張荘・趙遹・程鄰らも同様に拓地で賞を受けたが、いずれも祖道の手法を模倣したもので、朝廷はその弊害を被ったという。