宋史卷三百四十八 列傳第一百七 張荘
張荘、応天府の人。王祖道の広南西路における西南開拓策に加わり、溪洞諸州の納土を朝廷に報告して蔡京から祝賀を受けたが、実態は誇張が多く後に弾劾を受けて左遷された。
西南開拓の続き
- 張荘、応天府の人。元豊3年(1080年)進士に及第し提挙司講議司検討官、荆湖夔州路香塩事提挙、荆湖北路常平・提点刑獄を経て龍圖閣直学士・広南西路転運副使として王祖道の朱崖諸州県設置・万安軍移転を実地検分し祖道と共謀した。祖道が兵部尚書に召されると荘は集賢殿修撰・知桂州となり融州から復帰後、安化上三州一鎮・恩広監洞などの納土(5万1100余戸26万2000余人、幅員9000余里)、さらに寛楽州・安沙州・譜州・四州七源等州の納土(2万人・16州33県50余峒・幅員万里)を報告し蔡京は百官を率いて祝賀した。
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黔南路経略安撫使兼知靖州に進んだ。王子武(惠恭皇后族子)が渠陽軍の復活を求め荘はこれを利用し蛮の帰属を巡り対立、水蛮石盛唐の破却などを誘発し朝議に「生事」と非難された。安化蛮の納土に伴う淡州築城で蛮情に通じる黄忱を派遣したが、荘は忱を疑い胡超・儂昌らに安化城を築かせたところ蛮に襲われ千人近くが死亡した。中書舎人宇文粹中が「祖道・荘は師旅を擅興し衅を啓き功を邀った、欺君の甚だしきものだ」と弾劾し、祖道の追貶とともに荘も舒州団練副使・永州安置、さらに連州、和州へ移された。後に荊南府、江寧を経て徽猷閣直学士に復し渭・亳・襄州・鎮江・東平府を歴任、宣和6年(1124年)東平城修繕の不備で降官・提挙嵩山崇福宮となり没し、宣奉大夫を追贈された。
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趙遹、開封の人。大観初年、発運司勾当公事から梓州路転運司判官となり、瀘戎の諸夷納土に伴う純州県砦の設置に功があり直祕閣・転運副使、龍圖閣直学士・正使に進んだ。
- 政和5年(1115年)、晏州の夷酋卜漏が梅嶺堡を陥落させた事件が起きた。知砦高公老が逃亡し、その妻(宗女)の飲宴でもてなした金玉酒器に卜漏が目をつけていたこと、瀘帥賈宗諒の竹木徴収の擾乱、無実の酋長斗箇旁らへの誣告が反乱の背景にあった。遹は倍道で瀘州に急行し、宗諒の失策(監押潘虎が羅始党族の首領50人を誘殺し蛮を激怒させた事件)を弾劾、虎は斬られ宗諒は罷免され遹が節制を執った。
- 陝西軍・義軍・上軍・保甲3万を発し瀘南招討使として複数将と分進合撃した。晏州は堅固な要害で夷が石城・木柵・落とし穴を築いて防御していたため強攻できず、廵検种友直・田祐恭の進言で崖の裏から奇襲する策を採り、思黔の土丁に猱(猿)を使って炬火を背負わせ夜襲、賊の茅竹の廬舎に火を放ち混乱に乗じて総攻撃をかけ晏州を陥落させ、卜漏を捕らえた。拓地は二千里に及び、遹は城砦を建て屯田・訓練を行う「勝兵」制度を設けた。詔で沿辺安撫司を置き孫義叟を安撫使とした。高公老の妻は自ら死し節義を賜り、遹は龍圖閣直学士・熙州蘭湟経略安撫使、兵部尚書に進んだ。
- 童貫との不和で提挙醴泉観・詳定一司敕令に転じ、後に知成徳軍・延康殿学士となった。淶水の董才が反乱後に遼に投じ、遼が滅ぼした後に全燕回復を求めた際、王黼・童貫が乗り気になったが遹は反対し「帥臣・侍従の職は異なっても職責は同じ、真定・中山の辺境で事端を開けば無事ではいられない」と論じた。董才の書を斥け返したが、才は転じて河東に入り、王黼らはついに才を納れる決定をした。
- 熙州赴任の道中、諸蕃が「父が来た、朝廷は本当に無事を望んでいる」と喜んだという。陝西の大鉄銭の価値を銅銭と等価にする議論に「銅は重く鉄は軽い、道理に逆らえば民は信じない」と反対した。数か月後、致仕を願い提挙嵩山崇福宮、後に知中山・順昌・応昌府として金の挙兵に召還される途中で没した。子の永裔は知眉州となったが、後に遹の軍功に虚偽があったと弾劾され放罷された。
史論
- 論じて曰く、西夏は時に隙をうかがう相手、逐えば済むところを章惇・蔡京は故意にこれを撓乱し用兵し、辺人の肝脳を地に塗って自らの功とした、傎(あやま)っていると言わずして何であろう。諸蛮の溪洞は瘴癘の地、鴆虺と同居するような未開の地で我が国境を敢えて窺う者はいなかったのに、蔡京は王祖道・張荘の徒に空言で功を作らせ、中国の重貲を尽くして不毛の地に費やし、姦悪を粉飾して表賀を張り出した。徽宗もまた偃然としてその欺きを受け、好大黷武の心が一たび侈れば燕朔(燕雲十六州)の謀まで生じた。詩に「池の竭くるは源に自らざるにあらず、泉の竭くるは中に自らざるにあらず」とある。内に貪り外に馳せ禍敗を招く跡は、まさにここに由来する。ああ、戒めざるべけんや。