宋史卷三百四十 列傳第九十九 呂大防

呂大防、字は微仲。京兆藍田の人(祖父・父ともに官僚)。地方官として治績を挙げ、神宗期は辺境防備や諫言で朝廷に重んじられた。哲宗の元祐年間には尚書右丞・左僕射兼門下侍郎(宰相)に進み、祖宗の家法を体系立てて説いて哲宗を導いた。紹聖の政変で章惇らの弾劾を受け循州へ流される途上、71歳で病没した。

年表(5件)
  • 元祐元年尚書右丞・中書侍郎に進み、汲郡公に封ぜられる
  • 元祐3年呂公著の後任として尚書左僕射兼門下侍郎、神宗実録提挙となる
  • 紹聖4年循州安置に貶謫され、赴任途上の虔州信豊で病没、享年71
  • 高宗
  • 紹興初年大学士・太師・宣国公を追贈され、諡「正愍」を賜る
  • 紹聖2年渭州知事として横山攻略の緩進策を唱えたが章惇・曽布と合わず致仕(兄の呂大忠)

出自と地方官時代

呂大防、字は微仲。先祖は汲郡の人。祖父の通は太常博士、父の蕡は比部郎中で、京兆の藍田に葬られたことから一族はそこに住んだ。進士に及第し馮翊主簿となり、永寿県令のとき、井戸のない県のために近郊の泉を引く難工事を成功させ、民は「呂公泉」と呼んで感謝した。著作佐郎・青城県知事のとき、貸出と徴収の枡の大きさが異なり不当な利益が生じていた圭田の弊を正した。汶川に接する要衝では邏卒を置いて防備を固め、韓絳から「王佐の才」と称された。塩鉄判官を経て英宗即位後、太常博士・監察御史裏行となり、賞罰の基準の乱れ、大臣の老衰と機能不全、外国の驕慢、諫言の抑圧など5つの問題を指摘した。富弼・張昇・呉奎・程戡ら高齢の大臣の辞任願いをたびたび却下している状況を批判し、礼をもって進退させるべきだと説いた。京師の大水害に際しては陰陽の異変と結びつけ「主威不立・臣権太盛」など8事を挙げて諫めた。濮王の称号(「考」とすべきか)を巡る議論では、先帝が皇子として陛下を宮中に養った経緯を挙げ、私恩を優先すべきでないと強く反対し、10数回上奏したが結局は罷免され休寧県知事に出された。

神宗期の辺境と諫言

神宗即位後、通判淄州、知泗州、河北転運副使を経て、韓絳の陝西宣撫の判官、河東宣撫判官を兼ね知制誥となる。延州知事のとき、河外の荒堆砦を築城する構想に反対者が多かったが、大防は戍兵を留めて城壁を修築し、従わない者を斬って断行した。環慶での兵乱に連座して絳とともに落職し、太常博士として臨江軍知事、華州知事を歴任。華嶽の崩壊による被害に際しては経史を引いて天譴を戒め社稷の計を説いた。龍図閣待制・秦州知事を経て永興知事のとき、神宗の彗星求言に応じ「治本・緩末・納言」の九項目を献策し、西夏との戦費徴発が過重にならぬよう配慮して民力を温存した功で成都府知事となる。

哲宗即位後の要職と「祖宗家法」論

哲宗即位後、翰林学士・権開封府として僧侶による詐欺事件を的確に処断し、契丹の使者の慢言を宻かに探った隠事で封じ込めた。吏部尚書のとき、西夏との交渉で「強気の使者の裏には和議を急ぐ本音がある」と朝廷側の対応の要諦を説いた。元祐元年、尚書右丞・中書侍郎・汲郡公。青唐羌の犯境を洮州の諸将で撃退させ、鬼章・青宜結を生擒した。元祐3年、呂公著の後任として尚書左僕射兼門下侍郎、神宗実録提挙となった。哲宗の学問への熱意を促すため、仁宗の邇英閣御筆を書に写させ、乾興以来の四十一事例を「仁祖聖学」として編み、進講に用いた。祖宗の家法(母后への礼、外戚の政治不関与、宮室の質素、勤勉な内廷生活、寛仁な刑罰など)を体系立てて説き、哲宗に強く感銘を与えた。大防は朴訥・剛直で党派を作らず、范純仁と協力して国政を支え、8年間一貫した姿勢を貫いた。

紹聖の政変と流謫

宣仁后の崩御後、山陵使を務め、観文殿大学士として頴昌府知事、のち永興軍知事に移った。左正言上官均や張商英・周秩らの弾劾を受け、学士職を落とされ秘書監・分司南京、郢州居住となった。「神宗実録の直書が誣詆にあたる」との言で安州に移された。哲宗は大忠を通じて大防への配慮を伝えたが、大忠がこれを章惇に漏らしたことで章惇の追及がさらに厳しくなり、紹聖4年、舒州団練副使・循州安置に貶謫。虔州信豊で病に倒れ、子の景山に「呂氏の血筋を残すため必ず生きて帰れ」と遺言し、71歳で薨じた。徽宗即位後、高宗紹興初年に大学士・太師・宣国公を追贈され、諡「正愍」を賜った。呂大防は身長七尺、眉目秀麗で威儀があり、神宗にもしばしば目送されるほどであった。兄の大忠、弟の大臨とともに古礼に基づいた冠婚喪祭を実践し、関中の礼学は呂氏をもって知られた。郷約(徳業相勧・過失相規・礼俗相交・患難相恤)を定めたことでも知られる。

附伝:呂大忠

字は進伯。華陰尉・晋城令を経て、義勇の軍制改革(弓箭手を屯田、義勇を府兵に準じる制度)を提言。緣辺封溝(境界画定)の使者を辞退し、外国との信義軽視は禍を招くと諫めた。契丹への使者として蕭素・梁頴と席次を争って渡り合い、蕭禧の代北地要求に対しては「一使に地五百里を与えれば、次に大国の要求に応じきれなくなる」と神宗に諫言し、結局分水嶺を境とすることで決着した。河北転運判官として財政理念を説き、生財養民十二事を上奏。夏人の恭順の裏の意図を見抜いて謝罪の遣使に安易に応じぬよう説いた。糴(買い上げ)の不正を防ぐ実務も行った。紹聖2年、渭州知事として横山攻略の緩進策を主張したが章惇・曽布と合わず、致仕。学士官を復され葬儀を助けられた。

附伝:呂大鈞

字は和叔。乙科に及第し、秦州右司理参軍などを歴任。西夏討伐の際、転運使李稷が糧道を絶とうとしたのに対し、种諤に「朝廷の出師のさなかに転運使を斬るのは君父を無視することだ」と剛直に諫め、稷は事なきを得た。張載に学び師説を実践、冠婚喪祭・弔慶の礼を関中に広めた。井田・兵制の研究に精通し、図籍にまとめたが、52歳で没した。

附伝:呂大臨

字は与叔。程頤に学び、謝良佐・游酢・楊時とともに「程門四先生」と称された。六経、特に礼に精通し、古を実践に活かすことを説いた。選挙(科挙人事)の弊害を論じ、才を得れば人材不足は憂うるに足りないとした。致仕した富弼が仏教に傾倒するのを諫める書簡を送っている。元祐中、大学博士・秘書省正字。范祖禹の推薦を得たが用いられず没した。