宋史卷三百四十 列傳第九十九 劉摯

出自と地方官時代

劉摯、字は莘老。永静東光の人。10歳で父を失い、外家に養われ嘉祐年間に甲科及第。冀州南宮令のとき、過重な租税賦課を実情に応じて是正し、三司使包拯の後押しで正式に改定させた。信都令の李冲、清河令の黄莘とともに「河朔三令」と称された。館閣校勘を経て検正中書礼房となるが数十日で監察御史裏行に転じ、亳州獄(富弼を陥れようとした冤獄)や河北の過酷な徴発を弾劾した。神宗に「王安石に学んだのか」と問われ「安石を知らぬ」と答え、退いて上疏し「君子小人の別は義利にあり」との論を展開した。

新法反対の論陣

免役法(雇役助役)の十害を詳細に列挙し、地域差を無視した一律課税の弊、旧籍の不正確さ、上下戸の負担の不均衡、豊凶の変動に対応できない点などを論じた。曽布の反論(十難)に対しても堂々と応じ、青苗・均輸・助役の連鎖的な弊害を批判する上疏を重ねた結果、衡州の塩倉監に左遷された。左遷先で塩の管理を刷新し民に慕われた。南京判官の折、司農の新令が閼伯廟・微子廟の祠田を売却しようとしたのを張方平に取り次いで阻止した。同知太常礼院、集賢校理、開封府推官などを経て、元豊の新官制施行に伴い礼部郎中に抜擢された。

元祐期の要職と紹聖の弾圧

哲宗即位後、吏部郎中、秘書少監、侍御史を歴任し、経筵の充実や台諫の増員を提言。旱魃の際には廟堂の不和を天譴として糾弾した。山陵使として職務を怠った蔡確を弾劾、その過悪10箇条を列挙して罷免に追い込んだ。学制の煩瑣を批判し、経義・詩賦併用の科挙を復活させるよう請うた。御史中丞として朱光庭・王巖叟を登用し、包拯に比される清厳さで知られた。元祐元年、尚書右丞、左丞、中書侍郎、門下侍郎を歴任。胡宗愈の登用を巡る王覿の弾劾を宣仁后の逆鱗から救い、人材論(忠実で才識ある者を上とする序列)を説いた。元祐6年、尚書右僕射。厳格な人事管理で邪正を判別し、私謁を退けたが、持論が厳しすぎて讒言を招いた。邢恕への私信の一節(「休復」の語)を悪意ある解釈で「太皇太后の復辟を待つ意」と曲解され、鄭雍・楊畏の弾劾を受け、観文殿学士・鄆州知事に落とされた。紹聖初年、司馬光党として鄂州、雷州別駕・化州安置と累貶され、64歳で卒した。子の跂を英州に徙された家族は3年間で10人が瘴癘で死んだ。徽宗即位後、跂の伏訴により冤罪が晴れ、中大夫・観文殿大学士・大中大夫を追復、紹興初年に少師・諡「忠肅」を追贈された。摯は幼少より読書を欠かさず、礼学・春秋に精通し、子孫には器識を文藝より重んじるよう教えた。