宋史卷三百四十 列傳第九十九 蘇頌
蘇頌、字は子容。泉州南安の人。地方官として税制整理や司法の公正さで評価され、中央では四選(吏部人事)を掌り、契丹との盟約記録『魯衞信録』の編纂や渾天儀の製作で知られた。哲宗の元祐年間に尚書左丞・右僕射兼中書門下侍郎(宰相)を務め、故事の遵守と僥倖の抑制を旨とした。建中靖国元年、82歳で没した。
出自と地方官時代
蘇頌、字は子容。泉州南安の人。進士及第し宿州観察推官、江寧県知事を歴任。南唐旧領の煩雑な税制を戸籍精査によって整理し、簡明な賦課体系を確立した。民の紛争は郷党の情誼で和解させることを説いた。杜衍・欧陽脩に高く評価され「事に処すること精審」と称された。皇祐5年、館閣校勘、同知太常礼院。至和年間、文彦博の家廟建立議に対し礼制上の要件(爵位に応じた祭祀範囲)を論じた。郭皇后の神御殿設置を巡る議論では詔書の文言を精読し祔廟すべきと主張した。
中央要職と外交
集賢校理として9年間館下に在職し、清貧に甘んじつつ大家族を養った。頴州通判のとき、契丹からの降者趙至忠に礼を尽くし信頼を得た。仁宗の山陵に際しては地方に難得の物を強要する慣行を戒めた。英宗即位後、開封府界の防衛体制の不備を指摘し営兵の増設を提言、翌年その予見どおり長垣で民変が起きた。県令の治安責任を殿最(人事評価)に反映すべきと論じた。淮南転運使、起居注、知制誥を経て通進銀台司・審刑院を管掌。張仲宣の贓罪について「刑不上大夫」の原則を説き杖刑を免れさせ、これが後の定法となった。青苗官の権限が諸司と競合する弊を指摘し、統一的管理を提案。李定の急速な抜擢に反対する封還を行い、制詞起草を拒否した。
外交・司法・学識
知婺州のとき、母の乗る舟が転覆しかけたが、頌が水に飛び込んで救ったところ舟が自然に立ち直った逸話が伝わる。亳州知事のとき、罪ある豪婦の詐病を審らかにする吏に「万事は公議に委ねよ、私心を挟むな」と諭した。集賢院学士、応天府知事、通進銀台司知事を歴任。杭州知事のとき、市易法の負債に苦しむ民の返済猶予を認め、約束通り返済させた。契丹への使者として暦法の違い(冬至の日付のずれ)を巧みに説明し、神宗に称賛された。金遼関係を漢・唐の故事に照らして「外国の叛服は中国の盛衰と直接関わらない」と説いた。開封府知事として国子博士陳世儒の妻による殺姑事件の冤罪を晴らし、自ら虚偽の証言をしたことを認めて事件の真相(大理丞賈種民の文書改竄)を明らかにした。
官制整備と渾天儀
吏部・兵部の選法を一本化する官制改革に関わり、四選法を確立。契丹との盟約関係を体系的に記録する『魯衞信録』の編纂を1、2年で完成させ、神宗に称賛された。宗子の主祭承重の礼制を古今照合して整理提案した。元祐初年、刑部尚書、吏部・侍読を経て、国朝典章の淵源を唐制に求める史書編纂を進言した。吏部令史韓公廉の巧思により、渾儀・渾象・司辰を三層に配した水力自動天文時計(渾天儀)を製作させ、時刻・星辰の運行を正確に計測できるようにした。四選(吏部人事)を5年間掌り、公正な審査で不正を絶った。
宰相としての晩年
翰林学士承旨から尚書左丞、右僕射兼中書門下侍郎を歴任し、故事の遵守と僥倖の抑制を旨とした。阿里骨死亡の誤報に基づく西夏介入策を「情勢が定まらぬうちの越境立君は危険」として抑制し、事実その死は誤報だったことが判明した。賈易の左遷問題を巡り諫官と対立して辞位、観文殿大学士・集禧観使となり、揚州・河南を歴任、京口に居住。紹聖4年、太子少師致仕。宣仁后垂簾期には哲宗への配慮を怠らず「聖語は必ず哲宗に再確認する」姿勢を貫き、哲宗にも「頌は君臣の義を知る」と評された。建中靖国元年、82歳で没し、司空を追贈された。頌は経史百家から図緯・律呂・星官・算法・山経・本草まで通じ、典故に明るく、学校・貢挙の改革案(封弥・謄録の廃止など)も献策した。
史論
史論に言う。呂大防は重厚、劉摯は骨鯁、蘇頌は徳量あり。三者とも母后垂簾の時期に宰相を務め、元祐の治を嘉祐に比肩させた功績は容易でない。大防が説いた祖宗家法八事は決して過褒ではなく、万世の模範というべきである。摯の邪正の弁別は極めて厳格で、直道ゆえに小人の恨みを買い、大防とともに貶謫の地で世を去った。士論はこれを冤とした。頌はひとり長寿を全うし奸邪に汚されず、明哲保身と称された。とりわけ張仲宣の贓罪を巡り「刑不上大夫」の理を説いて処刑を免れさせた判断は、以後宋代を通じて贓罪を犯した官が死刑を免れる慣例の端緒となった。造物者の配剤というべきか。