宋史卷三百三十九 列傳第九十八 蘇轍
字は子由、蘇軾の弟。兄と同じく制科に及第し、王安石の青苗法に反対して条例司を追われた。元祐期には右司諫・尚書右丞・門下侍郎などを歴任し、「調停」策に強く反対して旧党の路線を守った。紹聖の政変で汝州・筠州・雷州などに次々と貶謫され、晩年は許州に隠棲して著述に専念した。享年七十四。
蘇轍――出自と若年の直言
蘇轍、字は子由。19歳で兄の蘇軾とともに進士科に及第し、さらに制科(策制挙)にも同時に応じた。仁宗の策問に対し、天子は在位30年余りだが、後宮の女性が千人規模に達し歌舞飲酒に耽り、政務への関心が薄れていること、対外的に契丹・西夏への出費がかさむ一方で内では宮中の浪費が止まらないことを痛烈に指摘し、民心が離れることを憂えた。この直言により考官の間で評価が割れ、司馬光は上位に置いたが、胡宿は不遜だとして退けるよう求めた。仁宗は「直言で招いた者を直言のゆえに退けては天下に示しがつかない」として下等での及第を許し、商州軍事推官に任じた。当時父の蘇洵は礼書の編纂に従事し、兄の軾は鳳翔判官であったため、轍は都で3年間父母に仕え、その後大名推官となったが、まもなく父の喪に服した。
蘇轍――王安石の新法への抵抗
神宗即位の翌々年、轍は上書して召し出され、延和殿で対面した。王安石が陳升之とともに三司条例司を主管し、轍をその属官とした。呂恵卿は安石に付き、轍としばしば議論が対立した。安石が青苗法の草案を示し意見を求めた際、轍は「銭を民に貸して利息2分を取るのは民を救う趣旨だが、出納の際に吏が姦を働き、良民でも濫用や返済遅延で鞭打たれる恐れがあり、州県の事務が煩雑になる」と説き、唐の劉晏が貸付を行わず市況を均して常平の術で国計を運営した故事を引いて、既存の常平法を整備すべきだと進言した。安石は一旦納得したが、河北転運判官の王広廉が度僧牒を元手に陝西で青苗法を私に施行して成果を上げたため、安石はこれを機に青苗法を全国に施行した。轍は陳升之に反対を訴え、また安石に書を送って強く諫めたため、安石は怒って処罰しようとしたが、升之が取りなし、轍は河南推官に転出させられた。
蘇轍――地方官歴任と兄軾の詩獄
その後、張方平に召されて陳州の教授、齊州の掌書記、著作佐郎、南京判官などを歴任した。在任2年目、兄軾が詩の一件(烏台詩案)で罪を得たことに連座し、筠州の塩酒税監に左遷され、5年間昇進の機会がなかった。のち績渓県知事に転じた。
蘇轍――元祐初年、旧党の登用と差役・科挙論争
哲宗が即位すると秘書省校書郎に召され、元祐元年に右司諫となった。宣仁后が臨朝し司馬光・呂公著を用いて弊政を改めようとする中、旧宰相の蔡確・韓縝や枢密使の章惇がなお在位して隙をうかがっていたため、轍はこれらを論じて退けさせた。かつて安石に諂った呂恵卿は、勢力が拮抗すると安石を仇のように陥れる姦臣であり、轍はその罪を弾劾し、散官として建州に安置させた。司馬光が安石の雇役法の弊害を理由に旧来の差役法へ完全に戻そうとした際、轍は「雇役が行われて既に20年、吏民とも新法に慣れており、急激な転換は新たな弊害を生む」として、当面は既存の役銭の余剰で雇役を継続しつつ、冬までに差役の準備を整えて翌年から施行するという漸進策を説いたが、光はこれを採らなかった。また科挙改革(王安石の新義を廃し新様式に変更する案)についても、来年の試験実施までに準備期間が足りないとして当面旧制を維持し、経義については諸家の説を併用して王氏の学に偏らないよう提言したが、これも光に容れられなかった。
蘇轍――西夏との国境問題と回河論
神宗期、西夏の内乱に乗じて熙河・延安方面に蘭州や安疆・米脂など五砦を増設していたが、西夏が朝廷にこれらの地の返還を求めてきた際、轍は「相手の要求に応じて機先を制すべきで、機を逸すれば後悔する」と説き、朝廷はついに五砦を返還し西夏は服した。起居郎・中書舎人に遷った後、黄河を旧河道に戻す議論(回河)について呂公著に「一度決壊した流路を人為的に戻すのは、先帝の代にもできなかった難事であり、労力の割に責任が重い」と説いたが、容れられなかった。
蘇轍――戸部侍郎としての財政改革論
戸部侍郎に進んだ際、財政の根本は民間・州郡に蓄えを厚くし、転運司・戸部が順にそれを支えるべきだという理念を説き、熙寧以来の理財の臣が本末を誤り、転運司を疲弊させたために戸部までもが窮乏していると論じた。さらに、戸部の権限が都水監(河渠)・軍器監(胄)・将作監(修造)の3司に分割されている弊害を「三弊」として具体的に列挙し、出納の権限(戸部)と施工の技術(工部)を分離すべきだと説いた(口腹と手足耳目の喩え)。哲宗はこれを容れたが、都水監のみは従前どおりとされた。また吏部の元豊年間に定めた吏員定数が旧額の数倍に膨張していた問題では、白中孚の意見(過去の煩劇な職務を基準に定数を再算定すべき)を踏まえ、「定員超過分は自然減耗を待って補充を止め、10年で是正すべき」と穏当な方策を宰執に進言したが、呂大防は結局別の急進的な方法で吏員を減らし、後に混乱を招いた。
蘇轍――「調停」論への反対と紹聖への布石
軾に代わって翰林学士となり、権吏部尚書を経て契丹への使者を務めた(契丹の侍読学士王師儒が蘇洵・軾・轍の文を諳んじ、轍の「茯苓賦」まで暗誦していたという)。帰国後御史中丞となる。元祐初年の政治が安定する一方、元豊の旧党が中外で邪説を唱えて動揺させていたため、呂大防・劉摯はこれらを穏便に登用して旧怨を和らげようとする「調停」策を図ったが、宣仁后は決めかねていた。轍は面と向かって反対し、上疏で「君子と小人を併用すれば必ず小人が勝つ(薫と蕕を同じ器に入れれば10年経っても臭いが残る故事)」と強く説いた。宣仁后はこの上奏を宰執の前で読ませ、調停論は立ち消えとなった。また轍は、朝廷が事を慎重に審議すべきこと(回河策の失敗、熙河における西夏への挑発策)、そして雇役・差役をめぐる混乱を「弊に因りて法を修める」形で漸進的に改善すべきことを説いた。元祐6年、尚書右丞から門下侍郎に進んだ。
蘇轍――西夏辺境問題と朝廷内の人事論
西夏が涇原を襲い弓箭手数千人を殺掠した際も朝廷は当初問責せず、後に再侵を受けてなお境界画定を優先させたため西夏側の侵食が進んだ。熙河の将佐范育・种誼が勝手に買孤・勝如の二堡を築いたことに対し西夏が反撃し、育らはさらに趙醇忠を招き寄せようとしたが朝廷は受け入れなかった。轍は范育・种誼の更迭を求めたが容れられず、「君主と臣下では事の権限が異なる。臣は正しいと知りつつ実行できないことがあるが、君主はそれを許さない権能を持つ。私が大臣の擁護に回るのは、あくまで陛下の威柄を保つためだ」と諫めた。西夏の10万騎が通遠軍に迫った際の対応会議では「用兵の理非を先に定めるべきだ」と説き、慶暦の旧例(現況を基準に境界を定める)に基づく交渉を進言したが、実際の交渉では朝廷が譲歩を重ねてしまい、轍は「これは朝廷の不直(理の欠如)が原因だ」と批判した。人事では、李清臣・蒲宗孟の尚書起用に反対し「かつて王珪・蔡確に連なった者たちを再登用すれば党派化を招く」と諫め、これを撤回させた。
蘇轍――紹聖の政変と晩年の流謫
紹聖初年、哲宗が親政を始めると、李清臣・鄧潤甫が策題で近年の施政(元祐の政治)を批判する内容を掲げた。轍は上疏し、神宗の諸施策(宗室恩典の削減、坊場売却による衙前雇用、諸科の廃止、寄禄官制の整備、六曹の復旧、重禄法など)は元祐期にも継承されており、父の政策の欠点を子が正すのは聖人の孝であるとし、漢の武帝の失政を昭帝・宣帝が是正した例、後漢の章帝が明帝の察政の失を正した例、宋の真宗の天書の説を章献太后・仁宗が黙して収めた例、英宗が濮廟の議を再燃させなかった例などを引いて、軽々に元祐の施策を覆すべきでないと説いた。しかし哲宗はこれを「漢武帝に先朝をなぞらえた不敬」と受け取り、汝州知事に落とされた。以後、袁州、朝議大夫として筠州、化州別駕として雷州安置、循州と累次貶謫を重ねた。徽宗即位後、永州、岳州に遷され、まもなく大中大夫・鳳翔上清太平宮提挙に復したが、崇寧年間に蔡京が政権を握ると再び朝請大夫に落とされ、許州に祠禄官として居住した。のちに大中大夫に復し致仕、許州に居を築いて自ら「潁濱遺老」と号し、自伝1万余言を著したが人と会わず、10年近く黙坐して過ごした。政和2年、74歳で没し、端明殿学士を追復され、淳熙年間に諡「文定」を賜った。轍は性が沈静・簡潔で、文章は汪洋として澹泊、兄軾に劣らぬ秀逸さを内に秘めていた。著書に『詩伝』『春秋伝』『古史』『老子解』『欒城文集』などがある。三子は遅・適・遜。
蘇元老――族孫
族孫の元老、字は子廷。幼くして父を失いながら学問に励み、春秋に長じ文章を能くした。蘇軾は海南への謫居中、書を交わし元老の学問を喜び、蘇轍も彼を愛でて奨励した。黄庭堅は元老を見て「これぞ蘇氏の秀才」と評した。進士に及第し広都簿、漢州教授、西京国子博士、彭州通判を歴任。政和年間、宰相が西南の辺境を開拓しようとし、帥臣らが近隣諸族を誘って土地を差し出させ郡県を置いたため茂州の蛮族が叛乱した。帥司が招降を急いだのに対し元老は「威が足りなければ恩も届かない」として、成都帥の周燾に書を送り、施州・黔州の兵を用いた奇策(正道の濕山と間道の青崖関から挟撃する策)を献じたが、燾は用いなかった。結局後任の帥がこの策どおりに事を運んで蛮族の勢いを挫き、降伏に至った。以後、国子博士、秘書正字、将作少監、比部考功員外郎、成都路転運副使、司農・衛尉・太常少卿を歴任した。元老は人と交わることが少なかったが、梁師成が「蘇軾の外子」を自称して接近し文を求めたのを拒んだため、言者に「蘇軾の従孫であり元祐の邪説に近い」と弾劾され、提点明道宮に落とされた。元老は「顔子が驥尾に付いて名を成した故事」を引いて自らを慰めたが、まもなく47歳で没した。詩文が世に伝わる。
史論
史論に言う。蘇轍の論事は精確で修辞も簡潔厳格であり、必ずしも兄の軾に劣らない。かつて青苗法の議論で数語をもって王安石を制し、以後安石はこの件に触れなくなった(後に王広廉の取り成しでようやく再燃した)。轍は寡欲であったため安石にも一目置かれていた。元祐の秉政期には章惇・蔡確を強く排斥して「調停」に与せず、回河や雇役の議論では文彦博・司馬光とも意見を異にし、西夏の辺事では呂大防・劉摯とも合わなかった。君子は徒党を組まないというが、まさにそれを体現した人物であった。轍と兄軾は進退・出処をともにし、患難の中でも友愛は篤く、近古稀な兄弟の姿であった。ただ官爵の高さは兄より優っており、造物の配分の妙というべきか。