宋史卷三百三十八 列傳第九十七 蘇過

蘇過

  • 字は叔黨。蘇軾が杭州を知る頃、過の年は十九、詩賦をもって両浙路解に及第したが礼部の試は下第となった。蘇軾が兵部尚書になると右承務郎に任じられ、蘇軾が定武に帥するや謫せられて英州を知ることとなり惠州に貶され儋耳に遷り、亷・永に漸く徙る間、独り過だけがこれに侍し凡そ生理は昼夜寒暑を問わず必要とするものは一身で百般に担うがその困難を知らなかった。初めて海上に至った際、「志隠」という文を作ると、蘇軾はこれを見て「私はこれで島夷に安んじることができる」と言い、これに因って孔子弟子別伝を作らせた。
  • 蘇軾は常州で卒し、過は父を汝州郟城の小峨眉山に葬り、そこで頴昌に家し湖陰に水竹数畆を営み小斜川と名づけ自ら斜川居士と号した。享年五十二で卒す。初め太源府税を監し次に頴昌府郎城県を知り皆法令によって罷され、晩年に中山府通判を権知し斜川集二十巻があり、その思子台賦・颶風賦は早くから世に伝わった。当時「小坡」と称され軾を「大坡」とみなしたものであった。その叔の轍は毎に過の孝を称し宗族を訓じて「わが兄は遠く海上に居ったが、成就したのはただこの子だけで文をよくする」と言った。七子は籥・籍・節・笈・篳・篴・箭。

史論

  • 蘇軾は童子であった頃より、士に石介の「慶暦聖徳詩」を伝える者があり蜀中に至ると、蘇軾は詩中に言うところの韓(琦)・富(弼)・杜(衍)・范(仲淹)ら諸賢を歴挙してその師に問い、師は怪しんでこれに語ると蘇軾は「まさにこの諸人を識りたいと思っただけです」と言った、思うにすでに当世の賢哲と頡頏しようとする意があったのだろう。弱冠にして父子兄弟が京師に至ると一日で声名は赫然として四方に動いた。まもなく上第に登り詞科に擢され書命を掌るに入り、外に出て方州を典った。器識の閎偉・議論の卓犖・文章の雄雋・政事の精明、この四つはいずれも特立の志をもって主とし邁往の気をもってこれを輔けることができたので、意の向かうところ言はこれを達するに足り、猷(はかりごと)あれば行はその為すことを遂げるに足り、禍患の来るに至っても節義はその守るところを固くするに足りた、皆志と気の為すところであった。仁宗は初めて軾・轍の制策を読み、退いて喜んで「朕は今日子孫のために両人の宰相を得た」と言った。神宗はとりわけその文を愛し宮中でこれを読むたびに膳を進めることを忘れ「天下の奇才」と称した。二君は皆蘇軾を知ることがあったが蘇軾はついに大用されることがなかった、独り欧陽脩がまずこれを識り、その名はついにこれと斉しくなった、これはどうして蘇軾の長ずるところが掩い抑えられないもので、天下の至公であることによるのではないだろうか。相となるかならないかには命がある、ああ、蘇軾が相にならなかったこともまた幸いではなかろうか。あるいは蘇軾がやや自ら韜戢していれば柄用を得られなかったとしても禍を免れられただろうと言う者があるが、たとえそうであっても仮にもし蘇軾がこれによってその為すところを易えたなら、なお蘇軾であることができただろうか。