宋史卷三百三十八 列傳第九十七 蘇軾

字は子瞻、眉州眉山の人。欧陽脩に見出されて科挙に及第し、王安石の新法にほぼ全面的に反対する議論を展開した。湖州知事在任中、詩文を口実に弾劾され投獄・黄州に配流された(烏台詩案)。哲宗朝の元祐期には翰林学士・礼部尚書などを歴任したが、紹聖の政変で恵州・儋州(海南島)に流された。文章・詩・書に卓越し、北宋を代表する文人政治家として知られる。享年六十六。

年表(6件)
  • 嘉祐二年1057年礼部試に及第し、欧陽脩に激賞される
  • 治平二年判登聞鼓院に入るが、韓琦の反対で急な登用が見送られる
  • 熙寧二年判官告院となり、王安石と新法をめぐる対立を深める
  • 元祐元年1086年七品服で延和殿に入侍し、中書舎人に遷る
  • 紹聖初年内外の制で作った詞命が先朝を譏斥したと論じられ、英州、さらに恵州に貶される
  • 建中靖国元年常州で卒す。享年六十六

出自と及第

  • 字は子瞻、眉州眉山の人。生まれて十年、父の洵は四方に遊学し、母の程氏が自ら書を授け古今の成敗を聞かせるとすぐにその要を語ることができた。程氏が後漢の范滂伝を読み慨然と嘆息すると、蘇軾は「軾がもし范滂となったら、母上はこれを許してくれますか」と問い、程氏は「お前が范滂になれるなら、私が范滂の母になれないことがあろうか」と答えた。冠に及ぶ頃には経史に博通し文を作れば日に数千言、賈誼・陸贄の書を好んだ。まもなく荘子を読んで「私は昔見るところがあってもまだ言葉にできなかったが、今この書を見て私の心を得た」と嘆じた。
  • 嘉祐二年(1057年)、礼部の試を受ける。時文が磔裂詭異の弊に勝っていたが、主司の欧陽脩はこれを救う方法を考えており、蘇軾の「刑賞忠厚論」を得て驚喜し多くの士の中で冠に擢したいと思ったが、その門客の曽鞏の作かと疑い第二に置き、また春秋対義で第一とし、殿試では乙科に中った。後に書をもって欧陽脩に見え、脩は梅聖兪に「私はこの人を避けねばならない、彼に一頭地を出させよう」と語り、聞く者は初め驚いたが久しくして信服した。
  • 母の喪に服すこと五年。福昌主簿に調され、欧陽脩は才識兼茂として秘閣試に薦めた。六論の試は旧来草稿を起こさなかったため多くが文において拙劣となっていたが、蘇軾ははじめて具に草稿を作り文義は粲然としており、また制策の対で三等に入った。宋初以来、制策で三等に入ったのは呉育と蘇軾のみであった。大理評事・簽書鳳翔府判官に除せられる。関中は元昊の叛以来、民は貧しく役は重く、岐下の歳輸の南山木栰は渭から河に入り砥柱の険を経るため衙吏は相次いで家を破っていた。蘇軾はその利害を訪ね衙規を脩め自ら水工を選ばせ時に応じて進止させたので、これより害は半分に減った。

英宗朝と王安石の新法批判

  • 治平二年、判登聞鼓院に入る。英宗は藩邸にいた頃よりその名を聞き、唐の故事に倣って翰林知制誥に召し入れようとしたが、宰相の韓琦は「軾の才は遠大な器である、他日自然に天下に用いられるべきだが、要は朝廷がこれを培養し、天下の士に畏慕降伏させ、皆朝廷が進用することを願うようにさせてから取って用いるべきである、そうしてこそ人々が異論を持たなくなる、今にわかに用いれば天下の士は未だそうと考えず、かえってこれが累となる」と述べた。英宗は「では記注官として用いてはどうか」と言うと、韓琦は「記注は制誥に隣接する、にわかに授けるべきでない、館閣の中でやや上位の帖職を与えるのが良い、召試を請いたい」と述べた。英宗が「試してその能否を知らねば、もし軾に能がなかったらどうするのか」と言うと、韓琦はなお不可とし、試すに二論に及ぶと再び三等に入り直史館を得た。蘇軾は韓琦の語を聞いて「公は人を愛するに徳をもってすると言うべきだ」と述べた。
  • 父の洵が卒すると賻に金帛が与えられたがこれを辞し一官を贈ることを求め、光禄丞を贈られた。洵が終わる際、兄の太白が早く亡くなり子孫が立たず、妹が杜氏に嫁いでいたが卒してまだ葬られていないことをもって蘇軾に属した。蘇軾はすでに服喪を終えると太白の姑を葬り、蔭により得られる官は太白の曽孫の彭に推し与えた。熙寧二年、朝に還ると王安石が執政しており元より蘇軾の議論が自分と異なることを憎んでいたが、判官告院とした。四年、安石が科挙を変え学校を興そうとし詔により両制・三館に議させると、蘇軾は上議して「人を得る道は人を知ることにあり、人を知る法は実を責めることにある。もし君相に人を知る明があり朝廷に実を責める政があれば、胥史皂隷にも人がいないことはない、まして学校貢挙においてはなおさらである。たとえ今の法によっても臣は余りがあると考えるが、もし君相が人を知らず朝廷が実を責めなければ、公卿侍従でも常に人がいないことを患うだろう、まして学校貢挙においてはなおさらである、たとえ古の制を復しても臣は不足であると考える」と述べた。
  • 「そもそも時には可否があり、物には廃興がある、その安んずるところにあれば暴君でも廃することはできないが、その厭う所に至れば聖人でも復すことはできない、故に風俗の変とともに法制もこれに随う、たとえるなら江河が徙移するようなもので、彊いてこれを復そうとすれば力を得難い。慶暦にすでに学校を立てたが今日に至ってはただ空名のみ存する、今もし今の礼を変え今の俗を易えようとすれば、また民力を発して官室を治め民財を斂めて游士を養うことになり、百里の内に官を置き師を立て、獄訟はここに聴かれ軍旅はここに謀られ、また教を率いない者を屏斥して遠方に処すことになる、これでは徒に紛乱をなして天下を患い苦しめるだけではないか。もし大更革がなくとも時に益があることを望むなら、慶暦の際と何ら異ならない、故に臣は今の学校はただ旧制に因り仍せることができ、先王の旧物を吾世に廃さないだけで十分だと考える。貢挙の法に至っては行われること百年、治乱盛衰は初めよりこれによるものではない、陛下は祖宗の世の貢挙の法と今とどちらが精しいか、言語文章は今とどちらが優れているか、得た人材は今とどちらが多いか、天下の士は今とどちらが辨えているか、この四つの長短を較べれば、その議は決するだろう」と述べた。
  • 「今欲する所の変改はいくつかの端に過ぎず、あるいは郷挙徳行して文詞を略すと言い、あるいは専ら策論を取って詩賦を罷めると言い、あるいは兼ねて誉望を採って封彌を罷めようとし、あるいは経生に墨義を帖せず大義を考えさせようとする、これらは皆一を知って二を知らない者である、願わくば陛下は遠大なことに留意されたい、区区たる法にどうして関わることがあろうか。臣はまた密かに私憂過計するところがある、そもそも性命の説は子貢すらこれを聞くことができなかったのに、今の学者は性命を言えないことを恥じ、その文を読めば浩然として当たるところなく窮めることができず、その貌を観れば超然として著るところなく挹むことができない、これがどうして本当にそうなのだろうか、思うに中人の性は放に安んじ誕を楽しむだけである」と議を上げると神宗は悟って「私はもとよりこれを疑っていた」と言い、蘇軾の議を得てその意は釈然となった。即日召見して「今の政令の得失はどこにあるのか、たとえ朕の過失であっても指陳してよい」と問うと、対えて「陛下の生知の性は天縦の文武です、明でないことを患えるのではなく、勤でないことを患えるのでもなく、断でないことを患えるのでもなく、ただ治を求めることが太急に、言を聴くことが太広に、人を進めることが太鋭にすぎることを患えます、願わくば安静をもって物の来るを待たれ、その後にこれに応じられるべきです」と答えた。神宗は悚然として「卿の三言、朕は熟考しよう、凡そ館閣にある者は皆朕のために治乱を深く思い、隠すところがないようにせよ」と述べた。
  • 蘇軾は退いて同列にこのことを語ったが、安石はこれを不悦とし権知開封府推官として事をもって困らせようとした。蘇軾は決断が精敏で声聞はますます遠くに及んだ。上元の勅で府が浙灯を市い且つ価を損なうよう命じられると、蘇軾は疏して「陛下がどうして灯を悦びとするだろうか、これは二宮の歓を奉じるためにすぎない、しかし百姓は分からず皆耳目不急の玩物のために口体の必要な資を奪われると言うだろう、この事は至って小さいが体は甚だ大きい、前命を追還されることを願う」と述べ、即座に詔によりこれを罷めた。この時安石が新法を創行しており、蘇軾は上書してその不便を論じ「臣が言おうとするのは三言だけである、陛下に人心を結び風俗を厚くし紀綱を存させることを願う。人主が恃むところのものは人心のみである、木に根があるように、灯に膏があるように、魚に水があるように、農夫に田があるように、商賈に財があるように、これを失えば亡ぶ、これは理として必然である。古より今に至るまで和易同衆にして安くない者はなく、剛果自用にして危うくない者はない、陛下もまた人心の悦ばざるを知っておられよう」と述べた。
  • 「祖宗以来、財用を治める者は三司に過ぎなかったが、今陛下は財用を三司に付さず、故なくまた制置三司条例司を創り、一司使と六、七の少年が日夜内で講求し、使者四十余輩が分行して外で営幹している、そもそも制置三司条例司は求利の名であり、六、七の少年と使者四十余輩は求利の器である、造端は宏大で民は実に驚疑し、法は新奇を創り吏は皆惶惑している、万乗の主をもって利を言い、天下の宰をもって財を治め、論説が百端に及び万口に喧伝されているのに、これを顧みない者はただ『私にはそのようなことはない、何を人の言に恤う必要があろうか』と言うだけである、これは網罟を操って江海に入り、人に『私は漁をするのではない』と語るようなもので、網罟を捐てて自らに信じさせるに越したことはない、鷹犬を駆って林藪に赴き、人に『私は猟をするのではない』と語るようなもので、鷹犬を放って獣を自ら馴らせるに越したことはない、故に臣は讒慝を消して和気を召そうとするなら条例司を罷めるに越したことはないと考える。今君臣が宵旰すること幾ど一年になるが、富国の功は茫として風を捕らえるようであり、ただ内帑から数百万緡を出し祠部から五千余人分の度を出したと聞くだけだ、これをもって術とするなら誰にできないことがあろうか、行うところの事は道路が皆その困難を知っている」と述べた。
  • 「汴水の濁流は生民が生まれて以来稲を種えたことがない、今これを陂で清くしようとし、万頃の稲には千頃の陂が必要で一歳一淤で三歳で満ちてしまう、陛下はついにその説を信じ、地形の所在を相視させ空を鑿って水利を訪ね尋ねさせているが、妄庸軽剽な者が意に任せて争って言い、官司はその疎かなることを知っていても敢えてすぐに行を抑退させることができず、老少を追集して可否を相視させても、もし灼然として行い難いのでなければ必ずしばらく興役し、官吏は苟且に順従するので実に陛下に興作の意があると考えるようになる、上は帑廩を糜やし下は農時を奪う、隄防が一たび開けば水は故道を失う、たとえ議者の肉を食らってもどうして民の補いになろうか、臣は朝廷がどうしてこれを苦しんでこれをなすのか分からない」と述べた。
  • 「自古役人には必ず郷戸を用いてきたが、今はただ江浙の間の数郡が雇役していると聞くだけなのに、これを天下に及ぼそうとしている、単丁女戸はもとより天民の窮する者であるのに、陛下は率先してこれを役し四海の富をもってしても加恤しないのに忍ばれるのか、楊炎が両税を制して以来、租調と庸はすでに兼ねられているのに、なぜまた庸を取ろうとするのか、万一後世に不幸にして聚斂の臣がいて庸銭を除かず差役を旧のままにすれば、その来歴を推す者は必ずその咎を任じる者が現れるだろう」と述べた。
  • 「青苗を放つ銭は昔から禁があったが、今陛下ははじめて成法を立て歳ごとに常行し、抑配は許さないと言うが、数世の後、暴君・汙吏の代になっても陛下はこれを保証できようか、計を得て請を願う戸は必ず皆孤貧不済の人だろう、鞭撻がすでに急なら逃亡が続き還らなければ均しく隣保に及ぶ、勢い必ずここに至る、異日天下がこれを恨み国史がこれを記して『青苗の銭は陛下より始まる』と言うだろう、どうして惜しくないことがあろうか。しかも常平の法は至れりと言うべきであるのに、これを変えて青苗となすことは、彼を壊し此を成すもので喪うところの方が得るところより多く、官を虧き民を害するのは、たとえ悔いても及ばない。昔漢の武帝は財力の匱竭により賈人の桑弘羊の説を用い、賎く買って貴く売り、これを均輸と称した、その時商賈は行かず盗賊は滋熾し、ほとんど乱に至った。孝昭がすでに立つと霍光は民が欲するところに順ってこれを与え、天下は心を帰し、以来無事であった、思いがけず今日この論が再び興っている、法を立てる初めにその費用はすでに厚く、たとえ薄く得るところがあっても、征商の額に損なうところが必ず多い、たとえば人が主人のために牛を畜牧するにあたり一牛を五羊に易えるようなもので、一牛の失は隠して言わず五羊の獲は挙げて労績とするようなものだ、今常平を壊して青苗の功を言い、商税を虧いて均輸の利を取る、どうしてこれと異ならないだろうか、臣はひそかに過ちだと考える」と述べた。
  • 「議者は必ず民は成を共に楽しめても始を共に慮ることは難しいと言うだろう、故に陛下は堅く執って顧みず必ず行うことを期しているが、これは戦国の貪功の人が行う険を冒し僥倖を求める説であり、成を楽しむに及ばず怨みがすでに起こっている。臣が願うところの陛下が人心を結ばれることとはこのことである。国家の存亡する所以は道徳の浅深にあって強弱にあるのではなく、歴数の長短する所以は風俗の薄厚にあって富貧にあるのではない、人主がこれを知れば軽重を知るだろう、故に臣は陛下に道徳を崇めて風俗を厚くすることに務め、功に急いで富強を貪ることを願わないでほしい。風俗を愛惜すること元気を護るようにすべきである。聖人は深刻の法が衆を斉えることができ勇悍の夫が事を集めることができるのを知らないわけではないが、忠厚は迂闊に近く老成は初め遅純のようであっても、ついに彼れをもって此を易えないのは、その得るところが小さく喪うところが大きいことを知っているからである。仁祖は法を持すること至って寛で人を用いること叙があり、専ら過失を掩覆することを務め未だかつて軽々しく旧章を改めなかった、その成功を考えれば『未至』と言うべきほどのものであり、用兵を言えば十のうち九が敗れ、府庫を言えばわずかに足りて余りなく、ただ徳沢が人にあり風俗が義を知るために升遐の日に天下は仁に帰したと言われた」と述べた。
  • 「議者はその末年に吏が多く因循し事が振わなかったことを見て、これを苛察をもって矯め智能をもって斉え新進勇鋭の人を招来して一切速成の効を図ろうとするが、未だその利益を享受しないうちに澆風はすでに成り、驟進の門を多く開き常調の人に非望を生じさせるようにすれば、風俗の厚さを望んでもどうして得られようか。近年、樸拙の人はますます少なく巧進の士はますます多い、願わくば陛下はこれを察し簡易をもって法とし清浄をもって心とし民徳が厚に帰されることをこれを救われるべきです、臣が願うところの陛下が風俗を厚くされることとはこのことです」と述べた。
  • 「祖宗は台諫を委任し未だかつて一言者に罪を加えなかった、たとえ薄責があってもすぐに超升させ、風聞を許して官長がなく、乗輿に言及すれば天子は容を改め廊廟に関われば宰相は待罪する、台諫はもとより必ずしも皆賢とは限らず言うところもまた必ずしも皆是とは限らないが、その鋭気を養い重権を借りることを湏いたのは、どうしてただそうしただけであったろうか、姦臣の萌を折るためである。今、法令は厳密で朝廷は清明である、いわゆる姦臣は万に一つもそのような理はないだろう、しかし猫を養って鼠を去るのに鼠がいないからと言って捕らない猫を養うことはできず、狗を畜って盗を防ぐのに盗がいないからと言って吠えない狗を畜うことはできない、陛下は祖宗がこの官を設けた意を念じ子孫万世のための防ぎとしないわけにいかないのではないか。臣は長老の談を聞くに、皆台諫の言うところは常に天下の公議に随い、公議が与するところは台諫もこれに与し、公議が撃つところは台諫もこれを撃つと言う、今、物論は沸騰し怨讟が交々至っている、公議の所在はこれもまた知られている、臣は今より以往、習慣が風となり尽く執政の私人となり人主を孤立させ紀綱が一たび廃されて何事も生じないことがなくなるのを恐れる、臣の願うところの陛下が紀綱を存されることとはこのことです」と述べた。
  • 蘇軾は安石が神宗に独断専任を賛じているのを見て、進士の試策を発するにあたり、晉の武帝は呉を平定するに独断をもって克ち、苻堅は晉を伐つに独断をもって亡んだこと、斉の桓公は専ら管仲に任じて覇となり、燕の噲は専ら子之に任じて事を敗ったこと、事は同じでも功は異なることを問うた。安石はますます怒り、御史の謝景温に命じてその過ちを論奏させたが、窮治しても得るところがなかった。蘇軾はついに外を請い杭州通判となる。
  • 高麗の入貢の使者が官吏に幣を発する際、書に甲子と称すると蘇軾はこれを却け「高麗は本朝に対して臣を称しながら正朔を禀けないのは、私がどうしてこれを受けることができようか」と言った。使者は書を熙寧に改めてはじめて受けさせた。この時、新政が日々下されており蘇軾はその間で毎に法に因って民を便にすることを図り、民はこれによって安んじた。密州を知ることに徙ると司農が手実法を行い、時に従って施行しない者は違制として論ぜられることになった。蘇軾は提挙官に「違制の罪はもし朝廷から来たものならどうして従わないことがあろうか、今司農から出ているのはこれ律を擅造するものだ」と言うと提挙官は驚いて「公はしばらくこれを緩めてほしい」と言い、まもなく朝廷は法が民を害することを知りこれを罷めた。盗が窃発すると安撫司は三班使臣を遣わし悍卒を率いて捕らえさせたが、卒は凶暴にほしいままに行動し禁物にまで及び民を誣いてその家に入り、しかも罪を畏れ驚き潰えて乱をなそうとしたので民は蘇軾に奔訴した。蘇軾はその書を投げて見ずに「必ずここに至らない」と言うと散卒はこれを聞いてしばらく安んじ、徐々に人を遣って招き出させこれを戮した。

地方官として:徐州・湖州・烏台詩案・黄州

  • 徐州を知ることに徙る。河が曹村で決壊し梁山泊に泛れ南清河に溢れ城下に匯り、水位が下がらず城が破れようとしたので富民は争って避難しようとした。蘇軾は「富民が出れば民が皆動揺する、私は誰と共に守るのか、私がここにいる限り水は決して城を敗ることはない」と言い、還らせて再び入らせた。蘇軾は武衛営に詣で卒長を呼んで「河がまさに城を害しようとしている、事は急である、たとえ禁軍でも私のために力を尽くしてほしい」と言うと卒長は「太守すら塗潦を避けないのに、私たち小人がどうして命を効さないでいられようか」と言い、その徒を率いて畚鍤(もっこ・すき)を持ち出て東南の長堤を築き戯馬台から起こし尾は城に属した。雨は日夜止まなかったが城が沈まなかったのはわずか三版であった。蘇軾は堤の上に廬し家を過ぎても入らず、官吏に分堵して守らせ卒に城を全うさせた。また来年の夫を調じて故城を増築し木岸として水の再至に備えることを請い、朝廷はこれに従った。
  • 湖州を知ることに徙る。上表して謝し、また事が民を便にしないものを敢えて言わずただ詩をもって諷を託し、国に補うところがあることを願った。御史の李定・舒亶・何正言はその表語を摭い並びに作った詩を媒蘖として謗訕とみなし、逮捕されて台獄に赴くこととなり死に置こうとし鍜鍊すること久しくして決しなかった。神宗は独りこれを憐れみ黄州団練副使の安置とした。蘇軾は田父野老と溪山の間を相従い東坡に室を築いて自ら東坡居士と号した。
  • 三年、神宗はしばしば再用の意を持ったがそのたびに当路者に沮まれた。神宗はかつて宰相の王珪・蔡確に「国史は至重である、蘇軾に命じてこれを成させることができる」と言ったが、珪は難色を示した。神宗は「軾が不可なら暫く曽鞏を用いよ」と言い、鞏は太祖総論を進めたが神宗の意は允さなかった。ついに手札を移して蘇軾を汝州に移すと「蘇軾は黜居して咎を思うこと歳を閲すること滋々深く、人材は実に得難い、忍びて終に棄てられない」とあった。蘇軾は未だ汝に至らないうちに上書して「饑寒で常州に田があります、これに居ることを願います」と自ら言った。朝に奏を入れ夕に報が可となった。金陵を過ぎる道で王安石に見え「大兵大獄は漢唐が滅亡した兆しです、祖宗は仁厚をもって天下を治めこれを革めようとしたのに、今西方の用兵は連年解けず東南でしばしば大獄を起こしています、公は独り一言もこれを救おうとされないのですか」と述べた。安石は「二事は皆恵卿がこれを啓いた、安石は外にあり敢えて言えようか」と答えた。蘇軾は「朝にあれば言い、外にあれば言わないのは事君の常礼にすぎない、上が公を待遇するところは常礼ではないのに、公が上を待遇するところがどうして常礼で足りようか」と述べた。
  • 安石は声を厲しくして「安石はまさに説くべきだ」と言い、また「出ずるは安石の口にあり入るは子瞻の耳にあるまでだ」と言い、また「人は湏く一つの不義を行い一人の辜なき者を殺せば天下を得られると知っても行わないほどでこそ可である」と言うと、蘇軾は戯れて「今の君子は半年の磨勘(人事考課)を減らす争いをするためなら殺人すら行うでしょう」と言い、安石は笑って言わなかった。神宗が崩じ哲宗が立つと朝奉郎・知登州に復し礼部郎中に召される。蘇軾はもとより司馬光と善く、章惇はこの時光が門下侍郎、惇が知樞密院で二人は相い合わなかった。惇はしばしば謔侮をもって光を困らせ光はこれを苦しんでいたが、蘇軾は惇に「司馬君実の時望は甚だ重い、昔許靖は虚名で実がないと蜀先主に鄙まれたが、法正は『靖の浮誉は四海に播れており、もし礼を加えなければ必ず賢を賤しむ累となる』と言い、先主はこれを納れて靖を司徒とした、許靖ですら慢ることができなかったのに、まして君実においてはなおさらだろう」と言うと、惇はこれを然りとし、光はこれによって少し安んじられた。
  • 起居舎人に遷る。蘇軾は憂患から起きたばかりであり驟に要地に履むことを欲せず宰相の蔡確に辞したが、確は「公は佪翔すること久しい、朝中で公の右に出る者はいない」と言った。蘇軾は「昔、林希は同じく館中にあり年もまた長じている」と言うと、確は「希が固より公に先んずるべきだろうか」と言い、ついに許されなかった。

元祐年間の中央官

  • 元祐元年(1086年)、蘇軾は七品服をもって延和殿に入侍すると、すぐに銀緋を賜り中書舎人に遷った。当初、祖宗の時、差役が行われること久しく弊が生じ、編戸で役に充てられる者はその役に慣れずまた虐使されることが多く破産に至り、狭郷の民は終歳休息を得られない者もいた。王安石が神宗を相けて免役に改め、戸に高下によって銭を出させ役を雇わせたが、法を行う者は過取をもって民の病とした。司馬光が相となり免役の害を知って利を知らず差役に復そうと欲し、官を差して局を置くと蘇軾はその選に与った。蘇軾は「差役・免役はそれぞれ利害がある、免役の害は民財を掊斂して十室九空となり上に斂聚して下に銭荒の患いがあること、差役の害は民が常に官にあって専ら農に力を尽くせず貪吏猾胥が縁って姦をなせること、この二害は軽重ほぼ等しい」と言った。光は「君はどう思うか」と問うと、蘇軾は「法は相因すれば事は成りやすく、事に漸があれば民は驚かない、三代の法は兵農が一体であったが秦に至ってはじめて二つに分かれ、唐の中葉に至って府兵をことごとく長征の卒に変えた、これ以来民は兵を知らず兵は農を知らない、農は穀帛を出して兵を養い兵は性命を出して農を衛る、天下はこれを便とし聖人が再び起こってもこれを易えることはできない、今免役の法は実にこれに類する、公は驟に免役を罷めて差役を行おうとしているが、まさに長征を罷めて民兵に復すようなもので容易ではないだろう」と述べたが、光は然りとしなかった。
  • 蘇軾はまた政事堂でこれを陳べると光は忿然としたので、蘇軾は「昔、韓魏公が陝西の義勇を刺す際、公は諫官として争うこと甚だ力めた、韓公は喜ばなかったが公もまた顧みなかった、私は昔公がその詳細を語るのを聞いた、どうして今日相となって私に尽言させないのか」と言うと、光は笑った。まもなく翰林学士に除される。二年、侍読を兼ねる。進読のたびに治乱興衰・邪正得失の際に及ぶと未だかつて反覆して開導せず啓悟するところを望まないことはなかった。哲宗は恭黙して言わなかったがそのたびに首肯した。かつて祖宗の宝訓を読んだ折、時事に及ぶと蘇軾は「今賞罰が明らかでなく善悪に勧沮するところがない、また黄河は北に流れる勢いなのにこれを強いて東に流させている、夏人は鎮戎に入り数万人を殺略したのに帥臣はこれを奏聞していない、毎事このようであれば衰乱を漸々なす恐れがある」と歴べ言った。
  • 蘇軾はかつて禁中に鎖宿し便殿に召されて対する際、宣仁后は「卿は前年何の官だったか」と問い「臣は常州団練副使でした」と答えた。「今何の官か」と問うと「臣は今翰林学士を待罪しております」と答えた。「どうしてにわかにここに至ったのか」と問うと「太皇太后・皇帝陛下に遭遇したためです」と答えたが「そうではない」と言われ、「大臣の論薦だろうか」と問われ「それも違います」と答えると蘇軾は驚いて「臣は不肖ではありますが敢えて他の道から進んでいません」と言うと「これは先帝の意である、先帝は毎に卿の文章を誦するたびに『奇才、奇才』と嘆じられていたが、まだ卿を進用するに及ばなかっただけだ」と述べた。蘇軾は覚えず声を失って哭き、宣仁后と哲宗もまた泣き左右も皆感涙した。まもなく座を賜り茶を賜い御前の金蓮燭を徹して院に送り帰らせた。
  • 三年、礼部貢挙を権知する。大雪苦寒に会い士は庭に坐して噤して言えないほどであったが、蘇軾はその禁約を寛くし尽くしてめぐらせることを得させた。廵舖内侍がしばしば挙子を摧辱し曖昧な単詞を持って罪に誣いたので、蘇軾は皆奏してこれを逐った。四年、事を論ずることを積んで当軸者の恨むところとなり、蘇軾は容れられないことを恐れ外を請い龍図閣学士・知杭州を拝したが未だ行かないうちに、諫官が前相の蔡確が知安州で作った詩が郝処俊の事を借りて太皇太后を譏ったと言い、大臣は嶺南に遷すことを議した。蘇軾は密疏して「朝廷がもし確の罪を薄くすれば皇帝の孝治に対して不足となり、もし確に深く罪すれば太皇太后の仁政にとって小累となる、宜しく皇帝が獄を置いて逮治し太皇太后が手詔を出してこれを赦すことにすれば仁孝両つながら得られる」と述べた。宣仁后は心中では蘇軾の言を善しとしたが用いることはできなかった。蘇軾が郊外に出る際、前執政の恩例を用い内侍を遣わし龍茶・銀合を賜り慰労は甚だ厚かった。

杭州・潁州・揚州・翰林承旨

  • 杭に至ると大旱・饑疫が並び起こったので、蘇軾は朝に本路の上供米三分の一を免じることを請い、また度僧牒を賜うことを得て米に易えて饑者を救った。明年春にはまた価を減じて常平米を糶き、多く饘粥・薬剤を作り医を挟んで坊を分けて病を治させ活かした者は甚だ多かった。蘇軾は「杭は水陸の会であり疫死は他処に比して常に多い」と言い、そこで羨緡を裒めて二千を得て、また橐中の黄金五十両を発して病坊を作り、稍々銭糧を畜えてこれに備えた。
  • 杭はもと海に近く泉は鹹苦で居民は稀少であったが、唐の刺史の李泌がはじめて西湖の水を引いて六井を作り民は水に足るようになった。白居易はまた西湖の水を浚渫して漕河に入れ、河から田に入れ溉すところは千頃に及び民はこれによって殷富となった。湖水は葑(水草)が多く唐及び銭氏より歳に浚治していたが、宋が興ってからはこれを廃し葑が積んで田となり水はほとんど無くなった。漕河は利を失い江潮から取り舟が市中を行き潮もまた多く淤し三年に一度浚渫するのが民の大患であり六井もまたほとんど廃れかけていた。蘇軾は茅山の一河が専ら江潮を受け鹽橋の一河が専ら湖水を受けているのを見て、そこで二河を浚渫して漕を通じ、また堰牐(水門)を造って湖水の蓄洩の限とすれば江潮は再び市に入らず余力で六井を修復できると考えた。また葑田を取って湖中に積み南北の径三十里を長堤とし行者を通した。呉人は菱を種えるが春にはいつも芟除して寸草も残さないので、また人を募って湖中に菱を種えさせ葑が再び生じないようにし、その利を収めて湖を修めるための費に備えた。救荒の余銭万緡・糧万石を取り、また百僧の度牒を得て役者を募った。堤が成ると芙蓉・楊柳をその上に植え望めば画図のようであった、杭人はこれを「蘇公堤」と名づけた。
  • 杭僧の淨源はかつて海浜に居り舶客と交通し、舶が高麗に至ると交々これを誉め、元豊末年、その王子の義天が来朝すると因ってこれに拝謁した。この時に至り淨源が死ぬとその徒が密かにその像を持って舶に付し義天に告げると、義天もまたその徒を来させて祭らせ、その国の母の二つの金塔を持たせて両宮の寿を祝った。蘇軾はこれを納めず奏して「高麗が久しく入貢しないのは賜予の厚利を失ったことによるものであり、意は朝を求めることにあるが我らが彼らを待遇する厚薄が測れないでいる、故に亡僧を祭ることに因って寿を祝う礼を行おうとしている、もし受けて答えなければ怨心が生じるだろう、受けて厚く賜えばまさにその計に堕ちる、今宜しくこれに関与せず州郡から自らこれを理を持って却けるべきである、彼らは庸僧・猾商であり国のために事を生じさせようとしている、漸に増長させるべきでなくこれを痛く懲創すべきである」と述べ、朝廷は皆これに従った。まもなく貢使が果たして至ったが、旧例では使が至る所吳越七州の費は二万四千余緡であったが、蘇軾は諸州に事を量って裁損させ民は交易の利を得て侵撓の害を受けなくなった。
  • 浙江の潮は海門から東に来て勢いは雷霆のようであり、浮山は江中に峙って漁浦の諸山と犬牙のように相錯り、洄洑激射して歳ごとに公私の船を敗ることは計り知れなかった。蘇軾は浙江上流の地名石門から山に並んで東に漕河を鑿ち、浙江及び渓谷の諸水を引いて二十余里で江に達し、また山に並んで岸としてほとんど十里で龍山・大慈浦に達し、浦から北に折れて小嶺に抵り嶺を鑿つこと六十五丈で嶺東の古河に達し古河を浚渫すること数里で龍山漕河に達すれば浮山の険を避けられると議した。人はこれを便としたが、この事を奏聞すると軾を憎む者がありこれを力めて沮んだので功はついに成らなかった。蘇軾はまた「三呉の水は瀦って太湖となり太湖の水は溢れて松江となり海に入る、海は日に両潮があり潮は濁って江は清く、潮水は常に江路を淤塞しようとするが江水は清駛でこれを随って滌去する、海口が常に通じれば呉中は水患が少ない、昔蘇州以東は公私の船は皆篙で行き陸を挽く者はなかったが、慶暦以来松江に大挽路を築き長橋を建てて江路を扼塞したので今三呉に水が多いのだ、挽路を鑿って十橋を作り江の勢いを迅くしようとしたが、これもまた行われず人は皆恨みとした」と述べた。蘇軾は二十年の間に再び杭に蒞み民に徳があったので家々に画像を掲げ飲食のたびに祝い、また生きているうちに祠を作って報いた。
  • 六年、召されて吏部尚書となったが未だ至らないうちに弟の轍が右丞に除されたことに伴い翰林承旨に改まった。轍は右丞を辞して兄と共に従官に備えることを望んだが聴されなかった。蘇軾は翰林で数月し再び讒言に因り外を請い、龍図閣学士をもって出て潁州を知る。先に開封の諸県は水患が多く吏はその本末を究めず陂澤を決してこれを恵民河に注いでいたが河はこれに勝てず陳に及ぶこともまた水が多かった、また鄧艾溝を鑿って頴河と並ばせ且つ黄堆を鑿ってこれを淮に注ごうとした。蘇軾ははじめて潁に至ると吏に水平で淮の漲水を測らせると新溝より高いことほとんど一丈であり、もし黄堆を鑿れば淮水はかえって流れて頴の地の患いとなると考えた。蘇軾はこれを朝に言い従われた。
  • 郡には宿賊の尹遇らがおり数たび刼殺人し、また捕盗の吏兵を殺したので、朝廷は名を挙げて捕らえようとしたが得られず、殺された家はまたその害を懼れて隠して敢えて言わなかった。蘇軾は汝隂尉の李直方を召して「君がこの賊を捕らえられれば力めて朝廷に言い優賞を行うことを乞う、得られなければまた不職として君を免ずるよう奏す」と言うと、直方は母がなお老いていたが母に訣を告げてから行き、廼ち盗の所在を緝知しその党与を分捕し、手ずから戟でこれを刺して尹遇を獲た。朝廷は格に応じないとして推賞せず、蘇軾は自分の年労を当てて朝散郎に階を改めることをもって直方に賞することを請うたが従われなかった。その後吏部が蘇軾のために遷任を当てる際にその考課をこれに合わせようとしたが、蘇軾はすでに直方に許したことがあると言いまた報われなかった。
  • 七年、揚州に徙る。旧発運司は東南漕を主り舟を操る者に私に物貨を載せることを聴し商を征しても留難せず、故に舟を操る者はしばしば富厚となり官舟を家とし弊漏を補い船夫の乏を周うために、載せるところは率ね皆速達し虞れがなかった。近年は一切禁じて許さなくなったので舟は弊し人は困窮し多くはその載せる物を盗んで饑寒を済い、公私ともに病んだ。蘇軾は旧に復すことを請いこれに従われた。歳を閲せずして兵部尚書をもって召され侍読を兼ねる。この歳、哲宗は南郊に親祀し蘇軾は鹵簿使となり駕を導いて太廟に入ったが、赭繖の犢車と青葢の犢車十余が儀仗を避けずに道を争っていた。蘇軾は御営廵検使に問わせるとこれは皇后及び大長公主のものであった。この時御史中丞の李之純が儀仗使であったが蘇軾は「中丞は職として肅政に当たるので聞奏しないわけにいかない」と言うと、之純は敢えて言わなかったので蘇軾は車中でこれを奏した。哲宗は使いを遣わし疏を持たせ太皇太后に馳せ白させると、明日儀衛を整肅し皇后から以下皆迎謁を得なくすることを詔した。
  • まもなく礼部に遷り端明殿・翰林侍読両学士を兼ねて礼部尚書となる。高麗が使いを遣わして書を請うと朝廷は故事によって尽くこれを許そうとしたが、蘇軾は「漢の東平王が諸子及び太史公書を請うても許されなかった、今高麗の請うところはこれよりも甚だしい、どうして許すべきだろうか」と述べ聞かれなかった。八年、宣仁后が崩じ哲宗が親政すると蘇軾は補外を乞い両学士をもって出て定州を知ることになった。この時国事がまさに変わろうとしており蘇軾は入朝を得ずに行くことになったが、既に行ってから上書して「天下の治乱は下情の通塞に出る、至治の極には小民でも自ら通じることができるが、大乱に至れば近臣ですら自ら達することができなくなる、陛下は臨御すること九年、執政・台諫を除き未だかつて群臣と接していない、今聴政の初めにはまさに下情を通じ壅蔽を除くことを急務とすべきである、臣は日々帷幄に侍りまさに戍辺すべきところにあり顧みて一たび見えて行くことができない、まして疎遠な小臣がおのれの自通を求めようとするのは難しい。しかし臣は対を得られなかったからといって愚忠を効さないわけにはいかない、古の聖人が有為をなそうとするには必ずまず晦に処して明を観、静に処して動を観る、そうすれば万物の情は皆眼前に陳ぶ。陛下は聖智人に絶ち春秋鼎盛であられる、臣は虚心循理して一切未だ為すところがなく、黙して庶事の利害と群臣の邪正を観察し三年を期して実を得てから物に応じて作ることを願う、すでに作った後に天下に恨みなく陛下にも悔いのないようにさせるべきである、これによって観れば、陛下の有為はただ太蚤きことを憂えるべきで稍遅きことを患う必要はないこともすでに明らかである、臣は急進好利の臣がすぐに陛下に軽々しく改変することを勧めることを恐れる、故にこの説を進める、願わくば陛下は社稷宗廟の福のために留神されたい、天下は幸甚である」と述べた。
  • 定州の軍政は壊弛し諸衛の卒は驕惰で教えられず軍校は廪賜を蚕食していたが前守はこれをどうすることもできなかった。蘇軾は貪汚の者を取って遠悪の地に配隷し、営房を繕修し飲博を禁止すると軍中の衣食は稍々足りるようになり、そこで戦法を部勒し衆は皆畏伏した。しかし諸校は業業として安んじられず、あるとき率史(軍属の吏)が贓を訴えその長に及ぶと、蘇軾は「この事は私自らこれを治めればよいのであって、汝の告げるのを聞けば軍中は乱れる」と言い立ちどころに決してこれを配せた、衆はここに定まった。春の大閲に会し将吏はもとより上下の分を廃していたが蘇軾は旧典を挙げるよう命じ、帥は常服で帳中を出て将吏は戎服で執事した。副総管の王光祖は自ら老将と称してこれを恥じ疾を称して至らなかったが、蘇軾は書吏を召して奏をなさせようとすると光祖は懼れて出て事を終えるまで一人も慢る者はなかった。定の人は「韓琦が去って以来この礼を見なかった、今に至るまでない」と言った。
  • 契丹は久しく和し辺兵は使えなかったが、ただ沿辺の弓箭社だけは寇と隣り合い戦社を以て自衛し、勇号は精鋭であった。故相の龎籍が辺を守り俗に因って法を立て歳久しく法が弛んでいたが、また保甲に撓されていたので蘇軾は保甲及び両税折変の科配を免ずることを奏したが報われなかった。紹聖初年、御史が蘇軾が内外の制を掌った日に作った詞命が先朝を譏斥したものだと論じ、本官をもって英州を知らせることとし、まもなく一官を降し寧遠軍節度副使に貶され惠州に安置された。

晩年の左遷と卒去

  • 三年居ること泊然として意に介するところなく、人は賢愚問わず皆その歓心を得た。また瓊州別駕に貶され昌化に居った。昌化はもと儋耳の地で人の居るべきところではなく薬餌もなかった。当初官屋を借りて居ったが有司はなお不可としたので蘇軾はついに地を買って室を築き、儋人は甓を運び土を畚してこれを助けた。独り幼子の過と共に処り書を著すことを楽しみとし、時々その父老に従って遊びまるで終身するかのようであった。徽宗が立つと廉州に移り舒州団練副使に改まり、永州に徙る。三たび大赦を経て還り玉局観を提挙し朝奉郎に復する。蘇軾は元祐以来未だかつて歳課をもって遷任を乞わなかったので官は最後までここに止まった。
  • 建中靖国元年、常州で卒す。享年六十六。蘇軾は弟の轍と共に父の洵を師としたが、まもなくこれを天から得たと言われるほどになった。かつて自ら「文を作ることは行雲流水のようなもので、初めから定質はなく、ただ常に行くべきところに行き、止むべきでないところで止む」と語った。嬉笑怒罵の辞も皆書いて誦することができ、その体は渾涵光芒として百代を雄視した、文章を有してより以来これほどのものは稀である。洵は晩年易を読み易伝を作ったが未だ完成しないうちに蘇軾にその志を述べることを命じ、蘇軾は易伝を完成させ、また論語説を作った。後に海南に居って書伝を作った。また東坡集四十巻・後集二十巻・奏議十五巻・内制十巻・外制三巻・和陶詩四巻がある。当時の文人である黄庭堅・晁補之・秦観・張耒・陳師道は世に未だ知られなかったが、蘇軾はこれを朋儔のように待遇し未だかつて師資をもって自ら予することはなかった。挙子となってより出入り侍従に至るまで必ず愛君を本とし、忠規讜論・挺挺たる大節は群臣もその右に出るものがなかったが、小人の忌悪する所となり擠排されて朝廷の上に安んじることができなかった。
  • 高宗が即位すると資政殿学士を贈り、その孫の符を礼部尚書とした。またその文を左右に置いて終日これを読んで倦むことを忘れ、文章の宗と称して自ら集賛を製し、その曽孫の嶠に賜い、ついに太師を崇贈し諡は文忠。蘇軾の三子は過・邁・迨、皆文を善くした。邁は駕部員外郎、迨は承務郎。