范百禄
- 字は子功、鎮の兄の鍇の子である。進士に及第、また才識兼茂科に挙げられた。この時治平の水災があり大臣はまさに濮の礼を議していたが、百禄は策に対えて「宗廟を簡んじ祭祀を廃すれば水は下に潤わない、昔漢の哀帝が共皇を尊ぶと河南・頴川に大水があり、孝安帝が徳皇を尊ぶと京師・郡国二十九に大水があった、そもそも大宗を隆んじ小宗を殺し宗廟を重んじ私祀を軽んずるのが本来のあり方だが、今、殺すべきを隆んじ軽んずべきを重んじるのは先王の礼に悖るものだ、礼が一たび悖れば人心が失われ天意が変異する所以がここから起こる」と述べた。対は三等に入った。
- 熙寧中、鄧綰が御史に挙げたが辞して就かず、江東・利梓路の刑獄を提点し直集賢院を加えられた。利州の武守の周永懿が賄で敗れると、百禄は至道の故事を復し文吏に兵を領させることを請いこれに従った。熊本が瀘蛮の事を治めた際、夷酋が力屈して降を請うと、裨将の賈昌言はこれを殺して功としようとしたが、百禄はこれを諭したが聴かれず、熊本に「降を殺すのは不祥であり、千人を活かした者は子孫に封を得る、どうして驕将が境内を横行するのを容れることができようか」と言うと、本は驚いてすぐに檄してこれを止めさせた。
- 七年、召されて知諫院となる。歳旱に属し急務を求め法令の未だ便ならざるものを講じて将に死せんとする民を救うことを請うた。手実法(財産自己申告制度)を論じて「簿を造る手実は令に匿す者を告げることを許すという規定があるが、手実の文があっても未だ行われたことがない、そもそも人に自ら占わせようとしても必ず実を告げず、明らかに告訴した者は仇とされる、そうであれば礼義廉恥の風は衰える」と述べた。五路に三十七将を置き専ら所部の兵を督せしめ、辟置の布衣参軍謀まで及んだが、百禄はその中を察し、あるいは恩沢で市を求め、あるいは瘝敗で収められ、あるいは辺方を歴任していないか、あるいは群盗から起こった者などその亡状を疏列した者が十四人あり、旧制のように将佐が専ら教閲し余は州県に付すべきことを請い、事は多く施行された。徐禧と共に李士寧の獄を治め、李士寧が童婦を熒惑し不軌を致した罪で赦さず死罪にすべきと奏したが、徐禧は士寧を右じて無罪と考え、執政は徐禧を主張し百禄は貶されて宿州の酒を監することとなった。
- 元豊末年、司門吏部郎中・起居郎に入る。哲宗が立ち中書舎人に遷る。司馬光が差役法を復す際、吏が賄を受けることを患い流配を加えようとしたが、百禄は固く争って「民が今日執事の人に謝礼を受け明日役を罷めれば財をもって人に賂すことになる、もし重典を持って繩めば黥面赭衣は必ず道路に充塞するだろう」と述べた。光は悟って「君の言がなければ私は悉くを知らなかった」と言い、ついに止めた。元祐元年(1086年)、刑部侍郎となる。諸郡が故意の闘殺で情状に矜むべきものがある場合、法官に讞(審議)を請うと「貸すべき」との答えがあったが、光は「人を殺して死なないのでは法が廃れる」と言うと、百禄は「これを殺人と言うならよいが、もし制刑としてこれを疑うに足りないと考え、原情としてこれを憫むに足りないと考えれば不可である、今おしなべてこれを死に処すれば二殺(故殺と誤殺)の科がこれより疑い憫む余地がなくなってしまう」と述べた。
- この時また詔により天下の獄で讞すべきでないのに輒く讞する者は罪に抵るとされ、有司はこれを重んじて請いに至り、かえって情を枉げて法に合わせようとする者があった。百禄は「熙寧の法は疑うべく憫むべきものでなくても讞する者を駁勘から免じていたが、元豊になってこれを刋め、近ごろは奏劾の詔があるので官吏は畏避して殺を論ずることを憚らない」と述べ、五年間の死貸の数を条にして聞かせた。門下省はなお貸すべきものを駁正し、また有司にある例は中書に還され、百禄はまたこれを争い、後に悉くその請いに従わせた。
- 吏部侍郎に改まる。議者は胥吏を汰しようと欲し、呂大防はその半を廃することを趣したが、百禄は「不可である、半を廃せば職を失う者が衆くなる、これを漸を以て消すに越したことはない、今から闕吏を補わなければ数歳経ずして半ばを過ぎて減るだろう」と述べたが聞かれなかった。都水の王孝先が河を故道に回すことを議し、大防は意向がこれに従っていたので百禄に行視させた。百禄は「東流は高く仰ぎ河勢は順下しているので回すべきでない」と述べ、すぐさまその所以の状を馳せ奏し、また神宗の詔で故道を塞ぐなかれとされたものも併せて上げた。大防はなお「大河の東流は中国の険限である、今塘濼はすでに壊れ界河も淤浅しているので河はまさに北に注ぐだろう」と言ったが、百禄は「塘濼には寇を限る名があっても寇を禦ぐ実はない、たとえ河が徙って北に至ろうとも、敵ははじめて下流の憂いを持つことになる、これは我が方にとっての利である、先帝の明詔が具にあるのに、どうして妄りにこれを揺るがすことができようか」と述べ、これに従い議は止まった。
- まもなく侍読を兼ね翰林学士に進む。帝のために邪正を分別する目を語り「凡そ人主をある事に導く者を公正とし、別の事に導く者を姦邪とすること、頗る相反すること凡そ二十余条あります、願わくばこの事を概観してその情を観れば邪正は分かれます」と述べた。龍図閣学士をもって開封府を知る。民事に勤め獄には繋囚がなく、僚吏がこれをもって獄空の聞こえを得ようとすると、百禄は「千里の畿内に一人の獄もないというのは、これは至尊の仁であり、私の功ではない」と言い許さなかった。数月を経て再び翰林学士となり中書侍郎を拝す。
- この年、郊祀で天地を合祭することが議され礼官が「昊天有成命」を言に挙げると、百禄は「これは三代の礼であるのに、どうしてまた合祭しようとするのか。成命の頌は天を祀り地を祭る際に均しくこの詩を歌うが、これはあたかも春夏の祈穀の際に噫嘻を歌うのと同じで、どうして一祭のためと言えようか」と述べ争い久しく決しなかった。帝の前で質すと宰相は「百禄の言は礼経です、今日の用は権制です、陛下が郊祀を始められるからには天地を並べて事えることを恭とすべきです」と言い、これにより合祭された。
- 熙河の范育が「阿里骨が酷暴な上に病があり、溫溪心の八族は皆内附を思っているので計をもって納れることができる」と言うと、百禄は「中国は信をもって四夷を撫している、阿里骨には未だ溪心を超える過ちがなく虚実も未だ分からないのに、釁がないのに動くのは策ではない」と述べた。また納迷等三城の進築を請う者があると、百禄は「これらは皆良田であり必ず争う地となる、我らがすでに城塞化すれば、もし賊騎が時に出れば我らはどのように耕作できようか、後にたとえ棄てたいと思っても費用はすでに甚だしくなっており、それもできない」と述べ、帝は皆これに従った。
- 右僕射の蘇頌が除書を稽留したことに坐して罷せられると、百禄は同省であることをもって罷せられ資政殿学士をもって河中を知り、河陽・河南に徙り薨じた。享年六十五。銀青光禄大夫を贈られた。子の祖述は頴州の酒税を監し獄掾を摂し具獄を閲して二人の死囚を活かし、州人はこれを神と考えた。鞏県を知る際、南山を鑿って水を導き洛に入れ、県は水患がなくなった。文彦博はその能を称えた。父が党籍に堕ちたことで中岳廟を監することとなり、久しくして涇州通判・台州を知り、黄柑・葛蕈の貢を罷めることを奏し、西京御史台を主管した。靖康の多難の折、汝州に避地すると、汝守の趙子櫟が邀えて共に守り、これにより傍郡が悉く陥落する中、汝だけは全うされた。累官して朝議大夫に至り卒した。従弟の祖禹。