种古
- 字は大質、若くして従祖の种放を慕い、人としては科挙の事に携わらず、任官すべき時にも弟に譲って辞し、当時「小隠君」と称された。种世衡が没すると古を天興尉に録し、累転して西京左藏庫副使・涇源路都監・知原州となる。羌人が塞を犯すと古はこれを禦い斬首数百級、鎮戎の北に城を築いて要害を拠った。神宗が召対すると通事舎人に遷り、その弟三人に官を与えた。弟の諤と共に環州の折薑会を破り斬首二千級、西上閤門副使に遷った。
- 民の中に直を損なって田を熟羌に売り役を避ける者があったので、古はその状を調べ、良田三千頃・丁四千を得て、悉く民兵に充てた。環慶・永興軍路鈐轄を歴任し、范純仁を訟えて不当としたことに坐して官一等を奪われ、知寧州、鎮戎軍に徙る。熙河の師十万が境上を通り芻糧を要すると、僚佐は他路のことだと言ったが、古は「均しく王師である」と言い供給を命じた。また鄜・隰二州に徙り卒す。享年七十。古は明達孝義で、弟の諤が擅興の罪に問われ繋獄された際、官を納めてその罪を贖おうとした。种世衡がかつて張問に田千畝を遺しており、張問がこれを返そうとしたが种世衡はすでに没していたので古はついに受けなかった。しかし种世衡は范仲淹に見出され青澗の功を立てたのに、古が私憾により范純仁を訟えたことに士論は少しく非難した。