宋史卷三百三十五 列傳第九十四 种諤

种諤

  • 字は子正、父の任により累官して左藏庫副使となった。延帥の陸詵に薦められ青澗城を知る。夏酋の令㖫が内附すると、陸詵は事を生ずることを恐れ納れることを欲しなかったが、諤はこれを納れることを請うた。夏人が索めに来ると、陸詵はどう答えるべきか問うと、諤は「令㖫を欲するなら景詢と交換すべし」と言うと止んだ。景詢とは中国から彼の地へ亡命した者である。夏将の嵬名山の部落は故綏州にあり、その弟の夷山が先に降っていたので、諤は夷山を通じて名山を誘わせ、金の盂を賂とすると名山の小吏李文喜がこれを受けて降を許したが、名山はまだ知らなかった。諤は聞くとすぐ転運使の薛向及び陸詵に招納を委ねさせたが、諤は報を待たずすべての所部兵を起こし、長駆して前進しその帳を囲んだ。名山は驚き槍を援じて闘おうとしたが、夷山が「兄はすでに降ることを約束したのになぜこのようなことをするのか」と呼びかけ、李文喜がその受け取った金の盂を示すと、名山は槍を投げて泣き、ついに衆を挙げて諤に従い南下した。酋領三百戸、万五千兵、万人の兵を得て城を築こうとした。
  • 陸詵は詔なく師を出したとして諤を軍を還すよう召したが、懐遠に軍が次する朝早く、櫛を持って身支度をしている最中に敵四万の衆が城を囲んで陣を布いた。諤は門を開いて待ち、名山に新附の百余人を率いさせて挑戦させ、諤の兵がこれに続き鼓を撃って進み、晋祠に至り険に拠って偏将の燕逹・劉甫に両翼を作らせ、自ら中軍となった。壘門を閉じ老弱を悉く城に登らせ鼓譟して敵を疑わせ、合戦に及ぶと二十里を追撃し俘馘は甚だ多く、ついに綏州を城塞化した。陸詵は諤の擅興と節制に禀らなかったことを弾劾しようとしたが果たさず、陸詵が秦に徙ると言者はこもごも攻撃し諤は吏に下され秩四等を貶され隨州に安置された。侯可が水利のことで入見した際、神宗がその事を問うと「种諤は密旨を奉じて綏州を取り罪を得た、その後何をもって人を使うのか」と答え、帝もまた悔いてその官を復した。
  • 韓絳が陝西を宣撫すると鄜延鈐轄に用いられた。韓絳が囉兀を築城し横山を規するため諤に兵二万を率いさせ無定川に出させ、諸将に節度を受けさせ河東兵を起こし、銀州で会したが、城が成ると慶州の兵卒が叛いたので詔により師を罷め囉兀を棄て、汝州団練副使に責め授けられ、再び賀州別駕に貶され単州に移り、また華州に移った。韓絳が再び相となるとその前功を訴え、礼賓副使に復し岷州を知る。董氈の将である鬼章が洮岷に兵を集め、新羌の多くが叛くと、諤は討伐しこれを誅した。李憲に従い塞を出て洮州を収め、逋宗・講珠・東宜の諸城を掩撃し大河に至り斬首七千級、東上閤門使・文州刺史に遷り涇州を知り、鄜延副総管に徙った。
  • 上言して「夏主の秉常はその母に囚われている、急ぎ本路官によりその巣穴を撃つべき」と述べ、入対して大言し「夏国には人がいない、秉常は孺子だ、臣が往きその臂を持って連れてくるだけだ」と言った。帝はこれを壮とし決意して西討し、経略安撫副使として諸将は皆その節制に聴った。諤は境上に次すると、帝は諤が期を先んじて軽々しく出たとして王中正の令を聴かせた。敵は夏州に屯していたが、諤は本路及び畿内の七将兵を率いて米脂を攻め、三日下らず、夏兵八万が来援すると、諤は無定川でこれを禦い伏兵を発してその首尾を断ち大破し、守将の令介訛遇を降らせた。捷報が聞こえると帝は大いに喜び群臣は祝賀し、中使を遣わして奨諭し王中正を罷めた。諤は千人を留めて米脂を守らせ、進んで銀・石に次したが夏州で敵は見えなかった。当初詔により霊武で会することになっていたが、諤は迂枉して進まず、士卒は飢憊し糧運が続かないため転運使の李稷に罪を帰し、麻家平に駐軍したところ大校の劉歸仁が衆を率いて潰えたので詔により班師させたが、なお鳳州団練使・龍神衛四廂都指揮使に遷った。
  • 諤は横山の地を拠るという志が未だ止まなかったので、子の朴にその策を上せさせた。帝は朴を召して状を問い閤門祗候に擢した。横山への築城が進む中、徐禧・李舜挙が鄜延に使いし計議した際、諤は「横山は延袤千里、稼作に適し人物は勁悍で戦いに善く、また鹽鉄の利がある、夏人はこれによって生を頼っており、その城壘は皆険を拠って守禦に足る。今、興功はまず銀州から始めるべきであり、次に宥州に遷り、また次に夏州を修めれば三郡が鼎峙して横山の地はすでにその中に包み込まれる。さらに次に鹽州を修めれば横山の彊兵・戦馬・山澤の利は尽く中国に帰し、その勢いは高きに居て興靈を俯視できるので、直ちにその巣穴を覆すことができる」と述べたが、徐禧と沈括は銀州城を永楽へ移すことに議を決め、諤とは謀を異にしたので、上奏して諤を延の守備に留めた。まもなく永楽が包囲されると、諤は観望して救わなかった。帝はその後効を期待し咎めず、なお賊の来襲を恐れて延州を知らせた。疽が背に発して卒す。享年五十七。
  • 諤は士卒をよく統御し敵に臨めば奇策を出し戦えば必ず勝ったが、詐誕残忍で左右に犯す者があれば立ちどころに斬り、あるいは先に肺肝を刳り、座にいる者は顔を覆っても諤は飲食すること平常のようであった。敵もその敢闘を畏れたので、しばしば功を挙げた。李稷の餽軍の際、朝入城すると諤の営では軍吏が鼓を鳴らして声を挙げ、諤は吏に問い「軍に何人の帥がいるか、要するに汝の首を借りて運使に代えよう」と呼んで叱り斬らせようとしたので、李稷は惶怖してすぐに退出した。かつて河を渡り不意に敵に遇うと、諤は門下の客に「事は急である、私の衣を着て私の馬に乗り旗鼓に従って千騎で大軍に赴け」と偽らせ、客はこれを信じ敵はこれを諤と思い追ったので諤はほとんど免れることができた。熙寧の綏州初開以来、再び西征を挙げてはいずれもその予兆をなしたが、ついに永楽の禍を致し、議者は諤が死ななければ辺事は止まなかっただろうと言った。