宋史卷三百三十四 列傳第九十三 沈起
字は興宗、明州鄞の人。地方官として治水・財政に功を上げたが、桂州知事として蕭注に代わり交趾(ベトナム)攻略を強硬に主張し、互市停止など強硬策で交趾の大規模な侵攻を招いた。責任を問われ団練使に貶され、配所で没した。
沈起
- 字は興宗、明州鄞の人。進士高第で滁州判官に調され、真州転般倉を監す。父の病を聞いて官を委ねて帰り侍り、喪により免ぜられたが、有司はその擅去を弾劾した。薦書は格に応じ遷用すべきだったが、帝は輔臣に「過ちを観て仁を知る、今父の病により罪を得たのでは、風教を厚くし天下の人子たる者を勧めることにならない」と述べ、特に遷任させた。
- 海門県を知り、県は海に接し地は低く、隔年ごとに海潮が来て民田を冒し民家は移って業を棄てていた。沈起は隄百里を築き江水を引いて灌漑し、田は益々開かれ民は相率いて帰り、祠を立てて報いた。御史中丞包拯が監察御史に挙げた。吏部の格で選ばれた吏は贓私に法に触れれば軽重を問わず終身遷任しなかったが、沈起はその情状を論じ、酌量できる者は年限を限って叙用すべきとし、ついに令として著された。県令考課法を立て、河渠司を設けて諸道の水政を領させた。漢の故事に倣い、卿大夫の子弟を選んで宿衛に入れ、賢良文学高第の者を選んで宮省に給事させ、宦官に専任させないことを乞い、宗室の袒免親を外官に補させ、府兵を復し冗卒を汰することを、数十上の書で論じた。
- 興国鉄官の事を論じて意見が合わず、通判越州に出され、蘄・楚二州を知る。京東で年に飢饉があり盗が起こり、提点刑獄に除せられると、贖法の開始とともに、その仲間内で互いに疑い合い、束縛し合って恐れを募らせた。開封府判官に改まり、湖南転運使となる。羽毛・筋革・舟楫・竹箭の材はいずれも管轄内から多く産出し、民から制限なく取り、吏がこれに乗じて姦を働いていた。沈起は当用の時期を見計らい商人と貿易させ、その省くところは十の六、七に及んだ。召されて三司塩鉄副使・直舎人院となる。
- 熙寧三年(1070年)、韓絳が陝西を使すると、沈起は集賢殿脩撰・陝西都転運使に加えられた。慶州で軍変が起き長安を寇そうとすると、沈起は兵を率いてこれを討平した。韓絳が綏州を城塞化する策が不利になると、沈起も罷せられ江寧府を知る。入って吏部流内銓を知る。契丹に使いすると、王庭の位次が夏使と同等であったため、沈起は「彼は陪臣であって王人と同列にすべきでない」と述べ辞退して列に就かず、東朝使者に昇格した。これより以後定制となった。
- 六年、天章閣待制・知桂州を拝す。王安石が用事してより辺功を求めるようになり、王韶が熙河を得、章惇・熊本もこれに乗じて功を求めた。この時、論者は交阯を取ることができると言い、朝廷は蕭注に桂を守らせ経略させた。蕭注はもとよりこの謀の張本人であったが、この時に至り再び難事とされた。沈起は「南交の小醜は取れないことはない」と言い、蕭注に代わることとなった。そこで専ら攻討に意を注ぎ、みだりに密かに旨を受けたと称して境吏に溪洞に入らせ土丁を点集し保伍を編成、陣図を授けて歳時に訓練を建て、指使を継ぎ督餫させ、鹽を海浜に集め舟師を集めて水戦を教えさせた。もとより交人と州県の貿易をことごとく禁じたため、交阯はますます二心を抱き、大いに兵丁を集めて侵寇を謀った。
- 蘇緘が邕州を知り、書を沈起に致して保甲を止め水運を罷め互市を通じるよう請うたが、沈起は聞かず蘇緘を弾劾して議を阻んだと責めた。沈起は辺議のことで罷せられ、劉彛が代わって広を守ることとなったが、その表疏を日々遏絶していたため、交人は疑懼し衆を率いて境を犯し、廉・白・欽・邕四州が連続して陥落し死者数十万人に及んだ。事が知られると、沈起は団練使に貶され郢州に安置され、越に徙り、また秀に徙って卒した。沈起は生涯兵を語ることを好み、かつて兵法をもって范仲淹に謁したことがあり、范仲淹はその才を器とし孫子の書に注を付けて自ら見せた。ついにこの用兵で敗れることとなった。