宋史卷三百三十四 列傳第九十三 高永能
字は君挙、代々綏州の人。种諤の綏州攻略の先鋒を務めるなど西北辺境で武功を重ねた老将で、無定河の戦いでは夏軍を大破した。永楽の役では献策が用いられず、齢七十にして一卒の姿で力戦し戦死した。撫恤に厚く部下から「老髙」と慕われた。
年表(3件)
- 元豊初年(頃)1078年鄜延都監となり、大会平で夏軍の一千騎を急襲し破る
- 元豊四年1081年西討の前鋒として米脂城を囲み、無定河で夏軍を大破する
- 1082年永楽の役で献策が用いられず、齢七十にして一卒の姿で力戦し戦死する
高永能
- 字は君挙、代々綏州の人。伯祖の文岯が州を挙げて帰順した際、団練使を拝したがまもなくこれを棄てて北方に移り、その祖父・王のみが延州に留まった。永能に至ってはじめて青澗に家した。若くして勇力があり騎射に善く、行伍から殿侍に補せられ、供奉官に遷った。种諤が綏州を取る際、永能の兵六千を発して先駆けとし囉兀に入り、五戦して皆勝ち、供備庫副使に転じ、綏徳城を治め地四千頃を開き戸千三百を増やし、城事を知った。
- 元豊初年(1078年頃)、鄜延都監となる。秋に大豊作となり、夏人が一千騎を大会平に屯し稼を取ろうとしたので、永能は精騎を簡んで突然その営を過り、騎卒は驚き潰えて鈐轄二人を獲た。六宅使に転じ、夏人はこれを患い「髙六宅を得た者には身をもって賞す」と令した。経略使の呂恵卿が辺を行くと、永能は谷中に伏騎して侵軼に備え、辺騎が果たして至ったので馳せ出て撃ち走らせた。夏兵二万が当川堡を犯すと、永能は千騎でこれに遇い、支えられないと見て険に依って疑兵を設け、戦いながら退き後方の騎に塵を揚げさせ援軍が来たように見せかけ、奮って前進し囲みを解いた。本路鈐轄に抜擢される。
- 元豊四年(1081年)、西討で永能は前鋒となり米脂城を囲むと、辺人十万が来援した。永能は弟の永亨に「彼は衆を恃んで軽々しく集まった、我が軍営は大川に当たっているから厳陣して待ち受け、左右翼を張って撃てば破れる」と語り、翌朝無定河で激戦し数千級を斬首、馬三千・槖駝牛羊万を得たが、城はなお下らなかった。密かに諜者を遣わして東壁の守将を降服させ、文錦を着せ鼓吹を先導させて城下に誇示すると、酋の令介訛遇はついに出降した。東上閤門使・寧州刺史に進み、老いを理由に致仕を請うたが許されず、また四方館使・栄州団練使に進んだ。
- 永楽の役では献策がいずれも用いられなかった。城が陥落した後、孫の昌裔が援けようと間道から出ようとすると、永能は歎じて「私は結髪して西羌に従事し、戦いに未だ挫けたことがない。今年すでに七十、国の大恩を受けて報いる術がない、これが私の死に場所だ」と述べ、あえて一卒の敝衣を着て戦って死んだ。その子の世亮は昌裔と共に遺骸を求めて連れ帰った。詔により房州観察使を贈られ、子の世亮は忠州刺史に録せられ、諸孫は皆侍禁・殿直となった。永能の家は代々州将を務め、率いる部下の多くは故部曲で、恩恵をもって撫し、敵に遇えば身を先んじ、傷ついた者は自らの副馬に乗せたので士は死力を尽くした。遠近の人々は喜んでその事を語り「老髙」と称し、死に際して辺人は痛惜しないものがなかった。かつて遠祖である唐の綏州刺史思祥の淘沙川廟で画像と神道碑を得てこれを上奏したため、詔によりその所在に田三十頃を賜い祭祀に供えさせた。永能の死に際し、延州の将である皇城使寇偉もまた力戦して没し、均州防禦使を贈られた。