劉彛
- 字は執中、福州の人。幼くして介特で郷里にあって行義をもって称された。胡瑗に学び、胡瑗はその治水に善いことを称え、立てるところの綱紀規式は劉彛の力が多かった。進士に及第し邵武尉となり、高郵簿に調され、朐山令に移った。簿書を治め孤寡を恤み、陂池を作り種芸を教え、賦役を平らかにし奸猾を抑え、民を恵むところは至らないところがなかった。邑人はその事を紀して「治蘩」と目した。
- 熙寧初年、制置三司条例官の属となったが、新法の不便を言い罷せられた。神宗は水官を選ぶにあたり劉彛が東南の水利に悉しいことをもって都水丞に除した。久雨で汴水が漲り、長城口を開こうという議があったが、劉彛は「ただ楊橋斗門を啓けば水は退く」と請うた。両浙転運判官となり処州を知る。俗は巫鬼を尚び医薬に事えないので、劉彛は正俗方を著して淫巫三千七百家を斥け、医を業に易えさせ、俗はついに変わった。
- 直史館を加え桂州を知る。交人との互市を禁じたところ、交阯が欽・廉・邕三州を陥し、その罪で均州団練副使に貶され隨州に安置され、また除名され民として涪州に編隷された。襄州に徙り、元祐初年に再び都水丞をもって召還されたが、病により道で卒した。享年七十。七経中議百七十巻、明善集三十巻、居陽集三十巻を著した。
史論
- 兵は凶器であり、聖人でさえ「未だ学ばず」と言うほどのものであるのに、敵を軽んじ謀に乏しければ自ら焼かれないことは稀である。永楽の陥落、安南の叛乱で死者百万に及び、その禍は甚だ惨たるものであったが、これは数人の者が自らを量らず辺境に事を起こしたことに由来する。徐禧・李稷・高永能の死は当然の報いというべきである。沈起は執議をますます固くし、妄りに軽々しく事を挙げ、貶官となってもその責めを贖うことはできない。劉彛は学んだところを行うことができず、規規として前車の轍を踏んでその過ちを助長した。どうして罪がないと言えようか。