熊本
- 字は伯通、番陽の人。児時より学を知り、郡守の范仲淹はその文を異とした。進士上第で撫州軍事判官となり、秘書丞に遷り建徳県を知る。県令が包魚池を埋めて窪田とし、熊本はこれを民に与えるべく弛めた。熙寧初年、上書して「陛下は賢傑を師と用い法度を改脩し、稷・卨・臯・夔のような佐を得た」と述べ、これにより淮南常平提挙・検正中書礼房事に。
- 六年、瀘川羅晏の夷が叛くと、詔により梓夔を察訪し、便宜に応じて夷事を治めることを得た。熊本はかつて戎州を通判し、その俗に習熟していたので、辺境を擾すものは十二村の豪であるとみなし、彼らを郷導として計をもって百余人を捕らえ、瀘川で梟首させた。その徒党は股栗し矢を誓って自ら贖おうとした。熊本は朝廷にこれを請い、刺史廵検の秩をもって寵し、勧賞を明示すると皆踊躍して命に従った。ただ柯陰という一酋長だけが従わなかったので、熊本は晏州十九姓の衆を合わせ黔南義軍・強弩を発し、大将の王宣・賈昌言に率いさせて進討させると、賊は力を尽くして拒んだが黄葛下で敗れ、深く追撃して柯陰は窘迫して降を乞うた。丁口・土田及びその重宝・善馬をことごとく籍にとって朝廷に帰属させると、烏蛮の羅氏鬼主ら諸夷は皆風になびくように帰順し、世々漢の官奴となることを願った。刑部員外郎・集賢殿修撰・同判司農寺に遷る。神宗はこれを労い「卿は財を傷めず民を害さず、一旦にして百年の患を去った、檄奏の詳明なることは近時稀に見る」と述べ、三品服を賜った。西南での用兵はここに始まった。蔡京がこの時秀州判官であったが、熊本はその学行の純茂なることを言い、幹当公事に薦めた。
- 河湟が初めて復した際、熊本は秦鳳路都転運使となる。熙河の法禁は緩やかで蓄積が歳月を支えられなかったので、熊本は冗官百四十員を省き、歳費数十万を減らすことを奏した。渝州の南川獠、木斗が叛くと、詔により熊本に安撫させた。熊本は進んで銅仏壩に営し、その要衝を扼して積聚を焚き、その党を破ると、木斗は気が索え、秦州の地五百里を挙げて帰順した。四砦九堡を建て銅仏壩を南平軍とした。当初熟獠王仁貴が木斗の親族として繋獄されていたが、熊本はその縛を釈いて麾下に置いていたので、この時に至り先登を推した。
- 大臣は熊本に天章閣待制を加えることを議したが、帝は「熊本の文は朕自ら知るところ、書命を典るべきである」と述べ、知制誥とした。帝はしばしばその文を称え、院吏に別録して進めさせた。また上疏して「天下の治には因と革があり、時に趨いて治に適することを期すのみである。議者はみだりに持盈守成の説を用い、文が茍簡で因循の治を行い、天下の吏はこれによって安常習故を俗とする。奮って忠を納める者は悠悠の徒が相与に額を蹙め目を怒らせて詆罵する。陛下が大号を出し大政を発すれば、極めて因革の理に適うと言えよう。しかし改制の初めには安常習故の群れは四方から視て交々讙き合わせて譟ぐ、あるいは廷で諍い、あるいは市で謗り、劾を投じて引き去る者は数え切れない。陛下は至理を燭見し独立して奪われない。今少し定まったといえども彼らは隙を窺って逞しくしようとするだろう、願わくば陛下は深くこれを念じ、譟讙の衆に間隙を窺わせず、万世成し難い業を終わらせられるように」と述べた。熊本の意は専ら王安石に媚びるものであった。
- 范子淵が河を浚渫する役を創始すると、文彦博がこれを争い、熊本を行かせて視察させたが議は文彦博に同じとなった。王安石はこれを白して熊本を分司西京に出させた。三年後、滁州を起知し、広州に改まり、召されて工部侍郎となる。宜州の蛮が辺を擾すと、龍図閣待制を除して桂州を知り、至れば溪洞の酋長を諭し辺吏に事を生じないよう戒め、将を選び兵を練り戍を代えることを請い、馬を益市して騎兵を足らせると、宜州はついに事無きに至った。
- 民の蔡宝が龍蕃を扇動し峒戸と相仇殺し、兵を引いて討伐しようとして功を求めたので、熊本はこれを質問すると顔色が動じたため縛って海に投じた。蛮夷はこれを神と見なし、交人が明年入寇しようとしていると密告した。使者がその言を実証すると、詔により熊本に問い質すと「使者が道中にあってどうしてこの情報を知り得ようか。仮に謀があったとしても、どうして先に知ることができようか」と答え、まもなく果たして妄言であることが判明した。この時、順州がすでに李乾德に賜与されていたが疆域の画定が未だ正しくなかったため、交人はこれを口実にたびたび勿陽の地を暴し儂智会を逐った。儂智会が師を乞いに来ると、熊本は檄して状を問うと、李乾德は兵を歛めて謝罪した。熊本はこれにより宿桑八洞の不毛の地を賜与することを請い、南荒はついに安定した。
- 転運判官の許彦先が湖南の塩を西広に通じさせることを議し、口を計って民に授ければ息三十万を得られると見積もったが、熊本は「桂管の民は貧しく地は瘠せており、命に堪えないのでは」と言い、議はついに沙汰止みとなった。吏部侍郎に入り、年を踰えて外に出ることを強く請い、待制を仍したまま洪州を知る。言者は「熊本が八洞を棄てたのは失策」と論じ官一等を奪われ、杭州・江寧府に徙り、再び洪州を知り、召還されるも道で卒した。文集・奏議あわせて八十巻がある。