宋史卷三百三十 列傳第八十九 韓璹

出自と経歴

  • 字は君玉。衛州汲の人。進士に及第し、定州安喜県知事として力強い政治を行い、吏に賄賂を取らせなかった。韓琦がその才を称えた。開封司録となり、嘉祐年間に諸道へ寛恤の使者を派遣する際、「京師の諸夏(民)だけがその恩恵を受けないことがあろうか」と述べ、徭役の利害を具体的に上奏。詔により司馬光・陳洙が条式を詳定し、大姓による搾取の弊害が改められた。
  • 利州路河北の刑獄提点、開封府判官として契丹の使者を迎える役を務めた際、南朝が狩猟をしないのはなぜかと問われ、「我らの君主の仁愛は昆虫にまで及んでおり、単に時期でないだけだ」と答えた。
  • 熙寧初年、梓州路転運使となり、役法改正の議論の中で綱の統合と労役削減の制度を最初に建議、剛(義務労役者)は数量で計算する者百二十八人、衙前(役夫)は人数計算で二百八十三人、合計五百人あまりの労役を削減した。また諸州の衙簿の見直しも求めた。王安石は「韓璹の言うことはすべて長く公私の弊害となっていたことで、監司は世論を恐れて公務に背き名声のためにこれを顧みなかったが、韓璹だけが皇帝の意図を体して行っている、褒賞すべき」と述べ、褒詔が下り絹二百匹を賜った。
  • 鹽鉄副使に召され、右諫議大夫として澶州知事となるが、推挙の失敗により太常少卿に降格。黄河決壊時、昼夜防御にあたった功を神宗が労い、大中大夫に復官、正議大夫として致仕、77歳で没した。
  • 吏事に絶倫で、案牘を扱えば一生忘れなかった。澶州の民は彼を慕い、後任の知事が何かを企てようとするたびに「これはすでに韓大中の時代に決着している」と言われ、実行が止まったという。