出自と経歴
- 字は資元。蘇州の人。進士高第。呂夷簡の推薦で国子監直講となる。大理少卿・度支判官・河北江東転運使を歴任、天章閣侍講を兼ねる。一路の勅の詳定を終えて勲爵に進む予定であったが、仁宗は錢象先の母が老いていることを慮り紫章服のみを賜った。待制・審刑院知事に進み、龍図閣直学士を加えて蔡州知事に出た。
- 経術に長じ、邇英殿での侍講を十余年務め、問われれば必ず経典に基づいて答え、繰り返し諷諭して現世の政務にまで及ばせた。皇帝の待遇は厚く、講読官が交代で進講する慣例のもと、既に蔡州行きが決まっていたにもかかわらず皇帝は「大夫の出発は近い、一編を最後まで講じ終えるように」と諭したという。
- 河南府・陳州の知事を歴任、また侍講と審刑院知事を兼ねた。法家の学にも通じ、しばしば刑官として条令の裁定に関わった。「勅に反する罪は重く、令に反する罪は軽い」として勅文を令に移すことを求める者が多かったのに対し反対。告発・捕縛の法についても、罪には検挙すべきものと検挙すべきでないものがあり、みだりに検挙を許せば姦人が法を利用して善良な人を害するとして、許可すべき捕縛百余件を削除した。この平恕な姿勢は一貫していた。
- 許州・頴州・陳州の知事を歴任し、吏部侍郎として致仕、81歳で没した。