出自と経歴
- 字は公彦。濰州昌楽の人。五経科に及第。審刑院詳議編勅刪定官、江西刑獄提点を歴任。侍講の楊安国が経術を評価して推薦し、仁宗は延和殿で講官全員を昇殿させ易経を講じさせ、翌日は泰卦を講じさせた。経筵官と僕射賈昌朝も聴講し、天章閣侍講に任じられ三品服を賜った。
- 直龍図閣・天章閣待制を加え、判流内銓。李参と郭申錫の間で黄河治水策をめぐる訴訟があった際、両者の弾劾を命じられたが、盧士宗は「両人とも当時の情勢に応じて用いられた者であり罪を確定させて追及すべきでない」と主張し、結局郭申錫のみが州に左遷された。龍図閣直学士・審刑院知事・通進銀台司知事に進む。
- 仁宗の神主を廟に合祀する礼で、太祖・太宗を一世とし一室を増やして七世に備えるべきとの案があり、両制と礼官が協議、孫抃らはこれに賛成したが、盧士宗は「礼として太祖の廟は万世不毀であり、その他の昭穆は親等が尽きれば毀すべきで、それが終わりを示す」と反対。漢代以来の先例(漢元帝の太上皇廟、魏明帝の処士主移動、晋武帝・恵帝の征西府君遷移)を挙げ、六世を過ぎれば主を遷すのが原則であり、太祖が東向の位に正しくあれば三昭三穆と合わせて七世になると論じた。唐の高祖は四世を祀り、太宗は六世に増やしたが太宗が廟に入ると洪農府君を遷し、高宗が入ると宣宗を遷した、いずれも先例に従ったもので、明皇の廟だけが八世を祀ったのは礼に外れているとし、今回も僖祖の親等が尽きているので遷すべきで、室を増やすべきでないと主張。詔により孫抃らが再議したが結局八室説に従うこととなり、批判を受けた。
- 青州知事に出て、入朝の挨拶で英宗から「学士の忠純な操は朕がよく知るところ、なぜ長く外にいるのか」と言われ、再び対面する機会を得て、知人安民の要諦を論じ皇帝に祖宗の法を守るよう勧めた。御史が「実務に疎く病がち」と指摘したため沂州に転じ、熙寧初年、礼部侍郎として致仕、71歳で没した。
- 儒者でありながら刑名の学に長じ、仁恕を旨としたため、刑部・審刑院での在職は前後十数年に及んだ。