出自と経歴
- 字は仲塗。泗州の人。進士に及第し、さらに明法科にも合格。大理寺詳断官に抜擢される。長興県知事のとき水害で民の多くが流亡したが、許遵は民に米を出させて救済し、無事に切り抜けた。さらに水利を興し灌漑を広げ、邑人はその利便を感謝し石碑を立てて記した。
- 審刑院詳議官、宿州・登州知事を歴任。刑獄の判断に長け厳格かつ寛恕であった。登州で大理寺の判官になることを望んでいた際、婦人阿云の事件が起きた。
- 阿云は嫁ぐ前に婚約者の醜さを嫌い、寝ているところを鎌で十数か所斬りつけたが殺しきれず、その指の一本を切り落とすにとどまった。役人は盗賊の仕業と疑って阿云を尋問し、拷問しかけたところ自白した。許遵はこの事件を審理し、阿云の母の喪が明けていない婚姻であったため常人として論ずるべきだとし、有司が「謀殺已傷」(殺意を持ち既に傷を負わせた)とすべきところを「自白は尋問前に得たものであり審刑院・大理寺の絞刑判断は誤り」と反駁して贖罪とする判断を下した。まもなく許遵は望み通り大理寺の判官となったが、自らの議論が用いられたことを恥じて弾劾を招いた。さらに「刑部の議論は正しくなく、云はもともと死罪を免れる理由がある。今、勅を無視して断例のみで断罪すれば自首・自白の道を塞ぐことになり、罪疑わしきは軽きに従うという原則に反する」と主張し、司馬光・王安石に議論を委ねる詔が下った。
- 司馬光は不可とし、王安石は許遵を支持。御史中丞滕甫・侍御史銭覬らは許遵の主張が法の趣旨に反すると論じ、朝議は紛糾したが、王安石が政権を握ると異論者を皆罪に問い、結局許遵の議論に従うこととなった。以後、尋問を重ねても自白しない者も「按問」(尋問既遂)とみなされるようになり、獄事の生死が尋問の順序次第で決まる弊害が生じ、天下はこの説を嫌うようになった。
- 熙寧年間、寿州知事に出、再び大理寺判官となり、潤州知事を経て崇福宮提挙を願い出て致仕。中散大夫まで進み、81歳で没した。