宋史卷三百三十 列傳第八十九 孫瑜

出自と経歴

  • 字は叔礼。博平の人。父の任により将作監主簿となる。賈昌朝の推薦で崇文検討・同知礼院・開封府判官に。契丹への使者として赴いた際、たまたま西方討伐の勝報が届き、館伴が祝賀の場への出席を求め厚い餉を贈って誘ったが、孫瑜は「使命に定めがある」として辞退した。
  • 秘閣校理を加え両浙転運使に。入朝の挨拶の際、仁宗は「卿は孫奭の子か」と問い、「大儒であり長く道を朕に諭してくれた」と述べて金紫を賜った。以前から郡県の倉庫で斗斛の大小により不正が行われていたのを、孫瑜が制度を統一し不正吏を処罰したところ民は大いに喜んだが、新制が不便だとする声もあり曹州知事に降格。その後、孫瑜の量制の便利さが認められ元の職に復帰、蔡州知事に転じた。
  • 蔡州で呉元済の像を毀ち、裴度を祀った。大水が城の隙間から入った際は数千の砂袋を用いて防ぎ、城を無事に守った。兖州・濰州・単州を歴任し、工部侍郎まで進み79歳で没した。
  • かつて師の孫奭が亡くなった際、朝廷はその子孫を録用しようとしたが、孫瑜の子が諸孫の中で年長にあたっていた。孫瑜は「父の喪に乗じて自分の子を官職に就けるわけにはいかない」と述べ、兄の遺児を推挙した。天資は厳格で几帳面な人物で、家を治めるにも厳しく、人と交われば一度信を置けば終生変わらなかった。推挙した士に過失があっても、それを知りながら追及するようなことはしなかった。

史論

宋は神宗の代まで百余年の太平が続き、風化・政治ともに整い、士は皆その職を全うした。上の教化が下の気風を作った結果である。当時朝廷に仕え、地方を治め節を持して各地の任にあたった人々には、それぞれの人物がおり、その治績は多くが記録に値する。任顓から孫瑜までがその代表である。任顓は西夏を屈服させ元昊の使者をも従わせ、李参は貪吏を退けて害を除き、辺事に心を配った。郭申錫は凶党を除き権貴を弾劾し、傅求は狡猾な吏を糾し盗鋳を禁じ、竇卞は自らの身を賭して民を救い、張瓌は余剰財の上納を拒み、張景憲は母の死に髪が白くなるほど誠実であり、孫瑜は父の喪に乗じて子を官職に就けることをしなかった。これらはとりわけ明らかな行いであろう。