出自と経歴
- 字は誠之。青州寿光の人。科挙(同学究出身)で衛尉丞となり、上奏文が評価されて進士に準じる資格を賜り、塩鉄判官に抜擢された。
- 陝西で康定年間に大銅銭を鋳造する政策があったが、任顓は「銭五枚を壊して一枚にすれば一で十に当たることになり、犯法者が多く出るだろう」と諫め、後に的中した。
- 西夏(夏人)が朝貢を納めつつ使者を送り十一項目の要求(一部は自らを「臣」ではなく「男」と称すことを含む)をしてきた際、押伴役として道理を説いて退けた。再度の使者が青塩の増額交易を求めた時も、対応策の多くは任顓の意見に基づいた。詔により榷場(交易場)が置かれた。
- 京西転運使として上京中、西夏の元昊が臣下に殺され、後継の諒祚から訃報を伝える使者楊守素が来た。楊守素はかつて元昊のために「臣を称さず節を受けない」策を進言した人物であった。仁宗はかつてその使者を軽んじたことがあり、再び任顓に押伴させた。任顓が元昊の死因を問い詰めると答えられず退去し、以後は勝手な言動をしなくなった。
- 鳳翔府知事に転任。皇帝は側近に「任顓は朝廷の重職を任せるべき人物」と語り、三司の判官格である憑由司の職に留めた。のち諒祚の冊礼使として西夏の風物・山川・道里・攻取の要点を調査し『治戎精要』三篇を著して上呈、直史館に進む。
- 河東転運使のとき、禁帑の金帛を河北に賜与した例にならい河東にも与えようとされたが、財政を委ねられている立場から自ら求めるのは不可と辞退した。
- 使者として赴くたびに必ず賢い僚佐一人を伴い、事は必ず協議し、胥吏に頼らず政務を行ったため、人々はその政治に安んじた。
- 塩鉄副使から天章閣待制に抜擢。儂智高(儂賊)が嶺外を侵した際、潭州知事・宣撫司として、投降した宣毅卒の中に功により軍校に補せられた者がいたが、任顓はその挙動から異心を見抜いて捕らえ、賊への内応であったと自白させた。その家を捜索して潭州の情報を記した記録を得て梟首とし、朝廷から白金五百両を賜った。龍図閣直学士・渭州知事に進む。
- 潭州在任中、死んだ商人の珠を安値で買った罪により待制に降格。渭州では四方の辺境警報が相次ぐ中、渭州だけが何も報告せず、朝廷は斥候の不備を疑ったが、任顓は「他に懸念はない」と主張し、皇帝が偵察させたところその通りであったため学士に復帰。
- 徐州に転じ、太子賓客として致仕。戸部侍郎まで累進し、78歳で没した。