宋史卷三百三十 列傳第八十九 李參

出自と経歴

  • 字は清臣。鄆州須城の人。蔭により鹽山県知事となる。飢饉の年、富家に説いて米を放出させ、公定価格で売らせ、買えない民には糟籺(酒粕・穀の屑)を給し、数万人を救った。
  • 定州通判のとき、都部署の夏守恩が不法な貪汚を働いていたのを転運使の命で調べ、事実を得た。夏守恩は謫(左遷)先で死んだ。
  • 荊門軍知事のとき、毎年夏に竹を伐って税簿とともに荊南へ運び造船に用いていたが、長く積んでおいたため多くが虫に食われて使えなくなり、牙校(役人)が破産してもその損失を償えなかった。李参は冬に竹を伐りその費用を見積もり、余った分は商人を募って交易させることでこの弊害を除いた。
  • 興元府・淮南・京西・陝西の転運使を歴任。管内に戍兵が多く食料に苦しんでいたため、麦や粟の余剰を民が自主的に見積もり、先に銭を貸して穀物が実った後に返させる制度(「青苗銭」と号した)を実施。数年後には倉に余剰の食糧ができた。熙寧の青苗法はこれに起源するという。
  • 辺境費用の増加を憂えた朝廷に対し、李参は銭を辺郡に輸送して市場価格で米を買う策を建議し、入中法(商人から物資を買い上げる制度)を停止。これにより千万単位の榷貨銭が節約された。
  • 塩鉄副使に召され、右諫議大夫として河北都転運使となり、安撫使郭申錫と黄河の治水策を協議したが意見が合わず、また真定の呂溱とも不仲になり、二人ともに罪を得た。李参は河東転運使に移された。
  • 荊南知事を経て、嘉祐7年に三司使に召され、参知政事に。孫抃が「李参が主計として外部で厳しく取り立てれば、天下の民が困窮する」と評したため、群牧使に改められた。王安石・王陶に国計経度の局を置くよう詔があったが、李参は「官がその職務を果たせないなら罷免すべきで、そうでなければこの局は不要」と述べ、その通りとなった。
  • 治平初年、集賢院学士を加え瀛州知事となり、黄金百両を賜る(帥臣への賜与はこれが初め)。樞密直学士に再遷し秦州知事に。蕃族の薬家族の反乱を討平し、良田五百頃を得て弓箭手を募集し定住させた。鎮に居ること数年、辺事を朝廷に報告しなかったため、英宗が使者を送り理由を尋ねると、「辺境の任にある者は無事を期すべきで、みだりに侵寇を報じて主君を憂わせない」と答えた。
  • 病により辺任を解かれ、西京御史台を判じ、曹州・濮州の知事となる。神宗はその才を高く評価し、殿柱に姓名を書き留めた。永興軍知事に任じられたが赴任前に74歳で没した。
  • 学識はなかったが剛毅果断で、姦悪を摘発することを好み、容赦しなかった。細事に至るまで取りこぼさず、当時「能吏」と称された。