宋史卷三百三十 列傳第八十九 郭申錫

出自と経歴

  • 字は延之。魏の人。唐代の郭元振の後裔と自称した。進士に及第し晋陵尉となる。ある民が弟を殺されたと訴えた際、その様子が悲しみを装っているに過ぎないと見抜き、「自分が犯人ではないか」と問い詰めると自白した。
  • 博州知事のとき、州兵が出戍する際に脅して反乱を煽動しようとする者がいたのを一人を処刑し二人を黥面にして鎮圧した。仁宗はその処置を聞き「小官がこのような対処をするとは得難い」と評し、御史台の推直官に抜擢された。
  • しばしば上奏し、大臣に不都合な議論を行った。慶州の獄事を審理し、京東の盗賊が濮州通判の井淵を捕らえた事件では、州事を知って一月経たずに凶党をすべて捕らえて処刑した。侍御史に召され、雑事を統括。
  • 張貴妃の追冊・園陵の起工、張堯佐の使相任命、陳執中の側室の婢殺害事件、余靖が醜行のある胡恢を推薦した件、高若訥が辺境の紛争を招いた范祥を推薦した件などを次々に弾劾し、権貴を憚らなかった。皇帝は「近年の士大夫は未達の時は時事を批判するが、登用されると態度を変える。それを俸給のための言論に利用しているだけだ。卿はそうするな」と評した。
  • 契丹(諜報により)の使者派遣を体量安撫として河北を巡視。帰任後、鹽鉄副使となり黄河治水策を検討したが、李参の議論の誤りを訴えたことが不実とされ、濠州知事に左遷。皇帝は朝堂に榜を掲げて彼の虚偽を非難した。
  • のち直史館に加えられ、江寧府知事、再び塩鉄副使、天章閣待制・鄧州知事・河中知事を歴任。种諤が綏州を奪取した際、「辺境の禍はこれより始まるだろう」と述べた。諒祚が死んだ際には、旧怨を捨てその子の襲爵を認めるよう主張し、「二虜(西夏・契丹)は歳幣を厚く頼っているので平和を破ることはその利益にならないが、必ず何か理由があるはずだ。ただ重臣を得て辺境を守らせ功を求めて事を起こさせなければよい」と述べた。
  • 辺境防備の策を著し、給事中として致仕。77歳で没した。