宋史卷三百二十九 列傳第八十八 陳繹

出自と経歴

  • 字は和叔。開封の人。進士に及第し館閣校勘・集賢校理として前漢書を刋定、母の喪中も自宅で校讐を続けた。英宗の親政が始まり深く沈黙していた頃、繹は5箴(主断・明微・広度・省変・稽古)を献じた。判刑部として獄訟に法と情が相反する案件があれば審議し、ある者が「刑曹はただ正邪の判断のみを職とすべきで軽重に関与すべきでない」と言うと、繹は「法を持する者は審らかで公平であることを貴ぶ、心で失刑を知りながらどうして座視できようか」と述べ、これにより多くの冤罪が正された。帝はその文学を称え実録検討官とした。神宗即位後、陝西転運副使に転じ、直舎人院・修起居注・知制誥を経て翰林学士を拝し、侍講学士として知郡州(原文ママ)に出た。
  • 繹は閨門(家庭内の規律)を整えられず、子と婦が一夜のうちに卒伍の手にかかって死んだ際も傲然と恥じる色を見せなかった。知通進銀台使に召され、帝は輔臣に「繹は事を論じて権貴を憚らない」と語り、権知開封府を命じられた。獄に小さな疑いがあるたびに中覆(帝の再審)に持ち込んでいたが、繹には特に便宜処決を許され、久しくして翰林に戻り開封府の治を兼ねた。司農の吏が庫銭を盗んだ獄が未決のうちに中書検正の張諤が寺事を代理し、稽留を咎める帖を出すと、繹は既に完成した文書を示して応じ、言者は繹が宰属に阿って有罪の者を放免したと論じ知滁州に出された。
  • 郊祀の恩で知制誥に復したが言者に再び論じられ祕書監・集賢院学士となる。元豊初め知広州となる。庫にあった檀香の仏像を繹は木で作り替えたが、これが発覚し有司は「官物には通常余剰利益が見込まれるものだが」と評した際、帝は「これは仏に事えるために重い典を犯したのだ」と述べた。時に繹は龍図閣待制・知江寧府に加えられていたが建昌軍に貶され職を奪われ、のち大中大夫に復して68歳で卒した。繹は政において豪党を挫くことに努めたが、行いは表向きと裏で異なり、晩年はことさら敦朴を装ったため、好事家は「熱熟顔回(表面だけ顔回を装う者)」と揶揄した。

史論

王広淵は仁宗の時代に近習の縁で英宗の潜邸に文を献じ、既に功名を窃取しようとする心があった、これは臣として不忠な者であり、たとえ侍従に列してもどうして語るに足りようか。王陶は始め韓琦に見出され、御史であった頃はかなり時政を鋭く批判していたが、中丞となると風向きを窺い琦を仇のように攻撃し重位を得ようとした、姜愚への布衣の恩義を忘れたこともまた咎めるに足る。王子韶が祖無択を陥れたこと、何正臣が蘇軾を論じたことはいずれも小人の盗名(名を盗む行い)である。陳繹は世に迎合し用事したが、獄事においては多く冤罪を正した点は評価できる、惜しむらくは閨門が乱れ廉恥を共に失ったことで、いかに吏事に明るくともどうして称えられようか。