宋史卷三百二十九 列傳第八十八 蹇周輔

出自と経歴

  • 字は皤翁。成都双流の人。若くして范鎮・何郯と布衣の交わりを結び、20歳前に大廷(殿試)を受けたが及第せず、鎮・郯がすでに高位に達した後、特奏名として初めて再び挙に及第。知宜賓・石門二県、通判安肅軍を経て御史台推直官として訊鞫(尋問)の才に優れ、微妙な真相を鉤索する能力を発揮した。掖庭の掌宝侍史に関わる詔獄が他司では数か月かかっても決着できなかった案件を、周輔は追及不可能と見極め要辞を主者に示して自白させたため、当時人々はその体を弁えた判断を評価した。李逢の獄でも臺臣の間で異論がなかったほどの手腕を見せ、神宗はその能力を称え開封府推官に抜擢し淮南転運副使に出した。
  • 盗の廖恩が閩中で党を集め兵吏に害を及ぼした際、福建に転じ諸将を護って討伐にあたり、恩はついに降った。元豊初め、唐の制に倣い諸司の獄を大理寺に統一する改革で少卿に選ばれ、三司度支副使に遷る。湖南が例として淮塩を用いていたが、周輔は広東の塩を数百万石運び郴・全・道州に配分することを求め、さらに淮塩を潭・衡諸郡に増配したため湘中の民は困窮したが、この法は度支の管轄となった。集賢殿修撰として河北都転運使に進み、宝文閣待制に進んで戸部侍郎に召された。知開封府として決裁の滞りが多く、中書舎人に授けられても拝さず刑部侍郎に改まった。元祐初め、言者が江西・福建で立てた塩法の苛酷さ・欺瞞・民への負担を暴き知利州、さらに廬州に転じ66歳で卒した。周輔は学識に富み文章に長け、神宗はかつて高麗への返書を作らせ賞賛したが、吏としては峻厳酷薄で古老を苦しめ人望を失った。

蹇序辰(蹇周輔の子)――附伝

  • 字は授之。及第後数年、泗州推官として江西常平を管勾していた頃、父の周輔が福建に赴任していたため「父子ともに遠方に任命され家族が拠り所を失う」と近地への異動を願い出て京西に改まり、まもなく江西常平を提挙、父の塩法施行を継いで監察御史・殿中侍御史・右司諫となった。哲宗即位後、司封員外郎に改まったが、周輔が罪を得た際、序辰はその悪事の遂行に加担したとして簽書廬州判官に降格、知楚州・提点江東刑獄を経て、紹聖中に左司員外郎に遷り起居郎・中書舎人・同修国史に進んだ。
  • 疏を上げ「朝廷が先に司馬光らの姦悪を正しその罪を明らかにして中外に告げたのは、典刑を改乱し法度を廃したこと、宗廟を誹謗し両宮を軽んじたことが明白だからだ、それらの経緯は詳しく調べられているが痕跡は8年前の深く秘められた事柄であるため、その章疏・案牘が有司に散在したままでは年月とともに散逸してしまう、姦臣の言動をすべて調査し編類して一府に蔵し天下後世への大戒とすべきだ」と述べ、序辰と徐鐸に編類を命じるに至った。これにより元祐の縉紳(士大夫)の禍から逃れられる者はいなくなった。礼部尚書に遷り、安惇と共に訴理事(元祐の獄の再審)を担当したが、遼への使いで無状であったことを咎められ知黄州に落とされ、4か月後に龍図閣待制・知揚州に復した。
  • 徽宗即位後、中書が「序辰は元祐の章牘を分類する際、言葉を歪めて謗訕として扱った」と論じ、惇と共に除名勒停・田里に放たれた。蔡京が宰相となると再び刑部・礼部侍郎を拝し、翰林学士承旨に進んだが、先帝の喪中に音楽を自ら楽しんでいたとの言があり知汝州に落とされ、2年後蘇州に転じた。部民の私鋳銭を見逃した罪で単州団練副使・江州安置に貶され、さらに知蘇州時代に天寧節(帝の誕生日)と父の忌日が重なった際に前日ではなく当日に宴を張り楽を奏したことを咎められ永州に移されたが、恩赦で官に復し中奉大夫となって卒した。序辰も文才があり傅会(こじつけ)に長け深文刻覈な点は父に似ていたという。