出自と経歴
- 字は振文。興化莆田の人。煕寧の進士第一等。簽書鎮東軍判官。紹聖末、給事中・直学士院として、蹇序辰が元祐諸臣の章牘の編類を建議した際、詔で共に主管することとなり、当時の施行文書を漏れなく攫拾附著した。礼部侍郎に遷るが、封駁の職にありながら給事中の多くが書読を拒む文書を代行することが常となっていた。貢院で科挙の受験生が書物を持ち込んだ罪を開封尹の蒋之奇が徒罪と判じようとした際、鐸は不当と争い之奇は軽く処理する方に転じたが、上奏後に章惇が怒って府吏を罰し、受験生は結局刑に処され、鐸はそれ以降あえて何も言わなくなり世は笑い話とした。
- 御史中丞への推挙が議論された際、この一件を理由に「無所執持(節操がない)」と批判され取り止めとなった。徽宗即位後、龍図閣待制・知青州となったが、御史中丞の豊稷は「鐸の編類事状は章惇の好悪をそのまま基準とし、存没の名臣が理不尽に竄斥された、序辰は既に田里に放たれたが鐸の罪もそれに劣らない」と論じ職を落とされ知湖州。崇寧中、礼部尚書を拝し廟制の議論で九室への増設を提案、既に祧された神主を再び祔すのは不可とする議論に対し「唐の献祖・中宗・代宗、本朝の僖祖もみな祧されてまた復された、宣祖を当祧に留めつつ翼祖を既祧から復すことに礼として問題はない」と論じ採用された。吏部尚書に進み卒した。