宋史卷三百二十九 列傳第八十八 李定
字は資深、揚州の人。若くして王安石に学び進士に及第した。青苗法を是とする対問で神宗の信任を得て知諫院に抜擢されたが、庶母の喪に服さなかったとして不孝を非難された。元豊初年、御史中丞として烏台詩案を主導し、蘇軾を弾劾・投獄させたことで知られる。元祐2年(1087年)、貶謫先の滁州で没した。
出自と経歴
- 字は資深。揚州の人。若くして王安石に学び、進士に及第し定遠尉・秀州判官となった。煕寧2年(1069年)孫覚の推薦で京師に召され、諫官の李常を訪ねた際「あなたは南方から来たが、民は青苗法をどう思っているか」と問われ「民はこれを便利とし喜ばない者はいない」と答えた。常が「朝廷では今この法の是非で争っているのに、そんなことを言うな」と言うと、定は安石にこの言を告げ「私はただ実情を報告しただけで京師でそれが憚られるとは知らなかった」と述べると、安石は喜び「あなたも上に直接お話しなさい」と勧め対問に推薦、神宗は青苗の事を問い、定は先の言葉通り答えたため、以後新法に反対する者の意見は聞かれなくなり、知諫院を命じられた。宰相は選人から諫官に直接除される前例がないと述べたが、太子中允・監察御史裏行・知制誥に拝された。宋敏求・蘇頌・李大臨が制書を封還したためみな罷免された。御史の陳薦は「定はかつて涇県主簿であった頃、庶母の仇氏が死んでも喪に服さなかった」と疏し、詔で江東淮浙転運使に事情を問わせると、定は「父の老齢のため帰郷を願い出た記録はあるが、生母の喪に服すべきとは述べていない」と述べ、自ら「実は仇氏が生母であることを知らず、疑わしいため服さなかった」と弁明したが侍養(父の世話)を理由に解官したものとした。曽公亮は定に喪に服し直すべきと述べ、安石はこれを強く支持し崇政殿説書に改めさせたが、御史の林旦・薛昌朝は「不孝の人物を勧講の地に置くべきでない」と共に安石も論じ、章6、7通が上程され安石は両人を罷めさせたものの定も安からず、辞職を願い集賢校理・検正中書吏房に落ち着き、直舎人院・同判太常寺を兼ねた。
- 8年、集賢殿修撰・知明州に加階、元豊初め寶文閣待制・同知諫院に召され知制誥に進み御史中丞となる。蘇軾の湖州謝上表を弾劾しその語を侮慢として摘発、軾が煕寧以来の文章で君父を怨謗し戚里と交通していたことを論じ、御史台獄に赴かせ徹底追究、赦の後も追及を続け黄州に竄らせた。定が自ら軾の獄を主導した際、崇政殿門外で「蘇軾は奇才だ」と同列に語ったが誰も答えなかったため、六案糾察の職と諸路監司にまで鉤考の権を及ぼすことを願い出て許された。彗星が東方に現れ直言を求め太史が兵変を予言した際、帝が宦者に衛士の飲食を視察させると、定は「一度の食事で恩を市る(買う)のは小人の心を起こすだけだ」と述べ帝は取りやめた。明堂祀を廃止する議論に帝が定に諮ると「三歳一郊、あるいは明堂は祖宗以来変えられたことがない、誰がこれを言い出したのか、その妄言を糺すべきだ」と述べ、帝は「そなたの言葉だけで十分だ」と応じた。
- 翰林学士に遷ったが、府界の養馬事の失実を論じられ知河陽・留守南京に罷免され、戸部侍郎に召された。哲宗即位後、龍図閣学士・知青州、汝寧府に移り、言者がその過去の過失を再び暴き滁州に謫居、元祐2年(1087年)卒した。定は宗族に恩恵を施し財を分けて振済し、任子(子弟登用の恩典)を優先的に用いず、兄の子が死んだ日には諸子はみな布衣であったという。しかし王安石に附いて美官を得、蘇軾を罪に陥れたことから公論に悪まれ、不孝の名が残った。