宋史卷三百二十八 列傳第八十七 安燾
安燾(字は厚卿、開封の人、享年75)。同知枢密院・知院事として神宗・哲宗朝の辺境政策や大河治水論に関わった重臣。高麗への使者としても礼を尽くし、宣仁太后の冗費裁減や治河策を諫めるなど公平を重んじた。
出自と経歴
- 字は厚卿。開封の人。幼くして聡明、11歳で学に入り群児と交わることを恥じ、老先生が弟子を集めているのを聞き師事を望んだが、先生は「お前はまだ誦数の学の段階で私に従うにはまだ早い」と断った。生徒たちが省題詩を競う試験で選ばれ、燾に難色なく詩を作らせるとその出来は諸生を凌駕し、以て名を知られた。及第後、蔡州観察推官に任じられ、太常丞・大名府路機宜文字を管勾、欧陽脩の推薦で祕閣校理となり吏部南曹判、荊湖北路転運判官、刑獄・常平農田水利差役事の提点を兼ねた。当時新法が興り、迎合する吏が免役の増寛や手実簿の作成、青苗の責保など苛切な政令を頻発する中、燾は公平に法を執行しその過酷さを朝廷に報告した。
- 京東路に転じる途中入見すると神宗はその容儀に感じ入り、中書孔目房の検正・修起居注に留めた。元豊初め、高麗と新たに国交が開かれ、燾は左諫議大夫を仮に授けられ報聘に赴いた。高麗は契丹への礼数を上回る厚遇で迎え「王は誠意から敬意を表しているのであって契丹への対応とは違う」と近臣が述べると、燾は笑って「中華を尊び大国に事えるのは礼として同じであるが、来訪が稀だからこそ厚くしているだけだ、遼との旧好はこれで薄まるものではない」と答え、帝はその礼の心得を評価し仮の官をそのまま授けた。直学士院を兼ね知審刑院として500余件の滞訟を裁決した。
- 陳州の知事を求め帰任後、龍図閣直学士・判軍器監となる。遼の使者を接遇する宴で、使者の従者が廡下に別に座らされることに強く抗議した際は力争して拒み、儀式に臨む際も従者を列に加えなかったところ、使者一同が門外に座り込んだ。燾は門で会見の後に退出させると衆はようやく反省し辞去の日には儀に従った。細事だと言う者に燾は「契丹は人を試すことを好む、これを許せば図に乗る」と答えた。まもなく権三司使に転じ戸部尚書に改まる。煕寧6年(1073年)同知枢密院。夏人が款塞し侵疆の返還を求めた際、燾は「要害でない地は返してよいが羌の欲は際限がない、常に朝廷が過ちを許し兵を息めるとの姿勢を示すべきで、兵を厭う意を見せてはならない」と述べた。
- 哲宗即位後、二府が煕河を放棄しようとする議論があったが燾は「霊武以東は皆中国の故地で先帝の武功によるものだ、これを故なく棄てれば外夷に軽んじられる」と固く争い、結局葭蘆等の四砦のみを返還した。蔡確らが政を執っていた頃、燾はその間で自らの主張を通せずにいた。元祐二年(1087年)知院事に進む。洮河を復し鬼章を捕らえ青唐・宜結の二辺がやや平穏になっても寇掠が絶えぬ状況で、燾は「国を治める者は用兵を好んでも畏れてもならない、好めば民を疲れさせ畏れれば患いを遺す、朝廷が辺吏に大挙侵攻でなければ応じなくてよいと戒めるのは畏兵に等しい、たとえ戍を保つのみでも計略を誤らせる、攻擾の策を復すべきだ、乾順は幼く梁氏が権を擅にし族党が反側しているので離間工作を行えば回戈して怨みを解くこともあり得る」と論じ、後に夏人が自ら分裂し使者を送り修貢するに至り燾の策どおりとなった。
- 宣仁太后が国用不足を憂い宗室の俸給も含め冗費を裁減しようとした際、燾は「陛下は外家を痛抑して至公を示そうとされているが、これは深く思案すべきだ」と諫め、太后は考え直して止めた。大河北流に対し宰相が水官の議に従い東へ回そうとした際、燾は「河が濼淀に流れ込めば淤淺し河朔で敵を防げなくなる」と憂い「小呉が決する前は河は屡々流路を変えても中国内にあり京師の北限となっていたが、これが西へ決すれば河尾は北へ偏り、南岸が敵界に接することとなり橋梁を建てられれば河外を窺われる、水官は地形や功費の議論に終始し治河の便のみを考え設険の要を軽んじている」と上言、河を東に戻す議論は乱立するも成らず東北は疲弊した。元祐3年(1088年)同列がみな遷官し新任執政も加階されたが燾だけは据え置かれ、詔で2階を特進させようとすると燾は「同列超升の慰めとしての故事であって私が受けるべきではない、朝廷が姑息にならぬよう自ら辞退する」と固辞、母の喪により退いた。
- 服喪後、観文殿学士・知鄭州、頴昌・河南府を経て門下侍郎に入る。宣仁太后崩御に際し宗室が既に三年の喪に服していたのに章惇が拝相して期(一年)に短縮しようとしたのを燾は「先后の保佑の久しきを追崇するのが当然、旧例を今急に改めるのは天下への聞こえも悪い」と諫め止めた。燾と章惇は布衣時代からの交わりで惇は助力を期待していたが、燾は容易に従わなかった。陽翟の民蓋漸の財産訴訟で諫官の来之邵が開封府と通じていた件を惇が擁護しようとしたが、燾は認めず開封府への弾劾も食い止め、惇との溝を深めた。明堂の斎祠で儀仗使となった燾が馳道を横切った官を弾劾しようとした際、諫官の常安民が教坊の相国寺での演奏を批判すると帝は安民の処罰を望んだが燾はこれを救い、惇が両者の対立を告げ口したため燾は知鄭州・大名に出された。父の日華は三班院の吏だったが燾の恩により光禄大夫に封ぜられ90余で卒し、燾は喪に服した。
- 徽宗立つと知枢密院に復す。旧制で内侍の出使は得た旨を院に報告し審実の上で行うこととされていたが多くが手続きを怠っていたため取り締まらせ、都知の閻守懃が他職への転任を求め罷免を告げなかったことも弾劾、帝は守懃に燾へ謝罪させた。郝隨の罪が問われる中、上意を忖度し赦を援用しようとする者があると燾はこれも争った。老齢を理由に退こうとすると帝は観文殿大学士を与えようとしたが、これは宰相の恩典だとの反対があり学士・知河南に留まった。将に赴任せんとして上疏し「紹聖・元符以来の用事の臣は紹述の名で君父を誑惑し、寵位を固め恩讐を晴らすことのみを図って何ら公家のためになっていない、神考の煕寧・元豊時代は府庫が充実し小邑の蓄えも20万を下回らなかったが、紹聖以来は傾竭して軍に糧なく吏に月俸もない、これが紹述だというなら厚誣である」と論じ、東京に党禍の兆しがあると戒めた。
- 建てられた青唐・邈川を湟州とする事業が守備の負担で困窮していたところ、燾は棄却すべしとする議者の言により奏して返還させた。崇寧元年(1102年)その罪を議され端明殿学士に降格、寧国軍節度副使・漢陽軍安置にさらに貶され、湟州の返還・鄯州の返還についても罪を問われ祁州団練副使に、さらに建昌軍に移されたが、鄯州放棄の時は喪に服しておりその決定には関与していなかった。ついに自ら弁明することはなかった。2年後、通議大夫に復し洛陽に戻り75歳で卒し、5年後に官職をすべて復された。子の扶は靖康時に給事中となり、金人が汴京に入って金帛を求めた際、梅執禮・陳知質・程振と共に殺された。