出自と経歴
- 初名は琥、字は邃明。滁州全椒の人。洎の孫。早く父を失い兄の環に養われ、任官を望まれても辞退し、冠する前に及第。鳳翔法曹・縉雲令を歴任。王安石が環と親しく政権を得た際にその子を登用しようとしたが環が既に老いていたため璪を中書条例の編修に引き入れた。集賢校理・知諫院・直舎人院を歴任。楊繪・劉摯が助役法を論じた際、安石は璪に反論の文誥を書かせようとしたが曽布がこれを買って出て安石の不興を買った。神宗が璪を知制誥にしようとしたが安石は曽布を推薦したため璪は同修起居注に留まった。県令から間もなく職を失った不実奏事の一件も間もなく復された。
- 武学の議論では「古の太学は舞干習射・受成献功をすべて内に含み、文武の才はここから出た、片方のみを習わせるのは聞かない、文武を問わず一様に太学で養成すべきだ」と述べた。朝廷が河隴を回復し夔・蜀・荊・広の諸夷を征服しようとした際は「先王は中国を治めることを務めとした、今、財も礼も十分でないのに遠征に及ぶべきでない」と諫めたが聞かれなかった。集賢殿修撰・知蔡州、知諫院兼侍御史知雑事を歴任。盧秉が東南で塩法を峻厳に行い一人の摘発で数家が黥流・破産に至り告発される者が2年で1万人に及んだ弊害を璪は条陳、また役法施行以来最下戸まで毎年銭を納めさせられている実態を改め寛減するよう求めこれが実施された。
- 鄭俠事件では璪は呂惠卿に媚びて馮京が俠と通じたと弾劾しその罪を重く仕立て、判司農寺から知河陽に出された。元豊初め権度支副使に入り知制誥・知諫院・判国子監を歴任、蔡卞を直講に推薦、太学生の月書季考・歳校で行芸により昇級させる制を建議、周官の郷比の法に倣い齋舎82を立て学官の盛況は近代に比なく、その多くは璪の発案であった。蘇軾が下獄した際は李定と共に軾を死に追いやろうと画策した。郊廟奉祀の礼を巡り議者が本朝で方沢の礼を行っていないことを非とし詔で議を改めさせた際、璪は夏至の日に冡宰が摂事する形での祭祀を提案し帝は「今の状況ではこれ以上の案はない」と認めた。翰林学士として官制を詳定、寄禄24階を旧来の省寺の虚名に代え職事の実名を正した功で元豊4年(1081年)参知政事を拝し中書侍郎に改まった。
- 哲宗即位後、諫官・御史がこぞって璪を「姦邪便佞で君主の意を窺い勢いに応じて阿附する」「危機を利用して人を陥れる」と攻撃、舒亶と深く結んで大獄を興したと非難し、天下は璪を大姦小人で高位にありながら徳を害する者と見なした。訴えは受理されなかったが、最後に劉摯が「璪は初め安石に仕え、次いで惠卿に附き、王珪に従い、章惇・蔡確に媚び、数人の性格が異なるにも関わらず情勢を探り節を変え歓心を得てきた」と論じ、ついに1年余りで資政殿学士・知鄭州に落とされ、河南・定州・大名府を歴任、大学士・知揚州に進み卒した。右銀青光禄大夫を贈られ諡は簡翼。