宋史卷三百二十 列傳第七十九 張存

張存(字誠之)

  • 冀州の人。進士に登第し、安粛軍判官として寇準に異例の厚遇を受けた。御史中丞王曙の薦めで殿中侍御史・侍御史となり、仁宗親政の初め百官転対の復活を建言し、周昌・朱雲・辛慶忌・辛毗の故事を引いて帝の心を開いた。
  • 京東・陜西・河北転運使、戸部度支副使を経て、黄徳和が劉平を誣告した際には劉平の奮戦を弁護し、朝廷は文彦博に按治させ劉平の無実を明らかにした。元昊の帰款議では兵役の疲弊を理由に慎重論を唱えた。
  • 龍図閣直学士として知延州となるべきところを母の老いにより辞し、澤州に徙り、後に成徳軍を知った。契丹と元昊の結昏の噂に対し、河北の城の整備を進言し都運使を兼ねた。
  • 知開封府に復した後、王則の乱での失察に連座し知汀州に降された。婿李敖の弟の妖言自縊事件では嫌疑を受けたが御史の案験で無実とされた。吏部侍郎で致仕し、十五年の間に礼部尚書まで累進した。
  • 性格は孝友で、蜀郡赴任時に得た竒繒文錦を兄弟に譲り、「兄弟は手足、妻妾は外人」と語った。棗彊で河決が城に迫った際も移らず留まった。享年88で卒し、諡「恭安」を賜った。

史論

  • 蔡襄・王素・余靖はいずれも昭陵(仁宗)の賢御史であった。蔡襄は治体を論じて韓琦・范仲淹の賢を推し、王素は不急の賞を罷めるよう請い、仁宗の二女子受納を非とした。余靖は夏竦・王挙正の登用不可を説いた。仁宗が求治に鋭意する中、君子が綱紀を提振して支えたからこそ慶暦の治が成ったのである。
  • 蔡襄は民事に精しく吏は欺くことができず、余靖は蛮徼で用兵し功名を収め、王素は西辺で恵政多く、開封尹としては煩劇を厭ったものの、渭州の辺民は老幼が相率いて称賀するほどであった。
  • 呂溱は陳執中を口舌で中傷することを望まなかった。彭思永は名士として程頤の賢を識る一方、歐陽脩の剛直を容れられず、蔣之奇の誣告により黜けられ士論に憾まれた。劉平の死は誰も敢えて言わなかったが張存独り奏してこれを明らかにし、忠義の気を蘇らせた功は他の諸人に劣らない。