宋史卷三百二十一 列傳第八十 鄭獬

鄭獬(字毅夫)

  • 安州安陸の人。俊材で詞章豪偉、進士第一に及第し、通判陳州・直集賢院・度支判官・脩起居注・知制誥を歴任した。
  • 英宗即位に伴う永昭山陵の造営が乾興の盛時の制度に倣おうとしたことに対し、先帝の節倹を理由に有司に名数を減らすよう願った。また新帝即位に伴う郡国の慣例的加官についても、五代の余習であるとして廃止を求めた。さらに帝への上疏で、大臣以外の意見も広く聴くべきと説いた。
  • 諸郡から遺逸の士を敦遣する詔が謬挙の批判で廃罷されそうになった際、「拔十得五」でも半ばは得られると擁護した。知荊南に出た後、治平中の大水に際して求言の実効性を問う疏を上げ、空文に終わらせぬよう提言した。
  • 判三班院を経て神宗の初め夕方に召され翰林学士を拝命した。朝廷が横山を納めようとする議に対し「兵禍はここから起こる」と反対し、种諤が綏州を取った際にも生事を戒める手詔に反する行為だと非難した。また元昊の子の嗣立に際して使者を送るよう進言し、識者はこれを是とした。
  • 開封府の獄事で新法に反する裁定を下し王安石に憎まれ、侍読学士として杭州に出た。御史中丞呂誨が留任を請うたが聞かれず、青苗銭の弊を訴え続けたのち引退を願い、鴻慶宮を提挙し、享年51で卒した。家貧しく柩は僧屋に十余年置かれ、滕甫が安州を治めるに及びようやく葬られた。