陳襄(字述古)
- 福州侯官の人。若くして孤児となるも自立し、陳烈・周希孟・鄭穆と交わり、時流の雕琢の文に対して知天尽性の学を唱え、四先生と称された。
- 進士に及第し浦城主簿として摂令の際、請託の風を廟鐘を使った計略で摘発し盗を服させた話が伝わる。知河陽県では稲作を教え、富弼に讒言されても学舎を廃さず、後に富弼の敬重を得た。
- 秘閣校理・判祠部として仏事度僧の濫発を抑え、知常州では常州・蘇州を苦しめていた運渠の氾濫を測量に基づいて治水した。開封府推官・鹽鐵判官を経て、契丹への使者として席次問題で出知明州となった。
- 侍御史知雑事として青苗法の弊を「管夷吾・商鞅の術」と論じ、王安石・呂惠卿の貶斥を求め、韓絳の政府参画にも反対、劉述・范純仁らの復官を求めたが聞かれず、辞して外に出ることを願った。安石は陝西転運使への転出を図ったが帝はこれを許さなかった。
- 陳州・杭州の知事を経て、樞密直学士・知通進銀台司兼侍読・判尚書都省を歴任し、享年64で卒した。給事中を追贈された。人材登用を問われた際は司馬光・韓維・呂公著・蘇頌・范純仁・蘇軾・鄭俠ら33人を挙げ、俠については「愚直で忠義に篤い」と評した。