余靖(字安道)
- 韶州曲江の人。進士に登第し、贛県尉・秘書丞などを歴任、班固『漢書』の舛謬を建言して王洙と校訂に当たり、集賢校理に擢された。
- 范仲淹が饒州に貶された際、諫官御史が敢えて言わない中、余靖は「刺譏大臣を理由とする重罰は聖慮に反する」と論じ、自らも監筠州酒税に落とされた。以後、知英州・太常博士・同知礼院を経て、慶暦中に右正言となった。
- 盗賊蜂起への対応、太白犯歳星の異変への修徳の請、契丹使としての奏事、開宝寺霊感塔の災に対する上疏(勤倹して天意に応えるべしとの論)など、多くの言事を行った。
- 夏竦の姦邪、王挙正の不才、狄青の武人偏用、張堯佐の政事濫用、太常博士王翼の賜服の不当などを論じた。西夏との和議で嵗賜が増額されることに対し、景徳の澶淵の故事と比較し、契丹への波及を懸念した。
- 知制誥として元昊への冊封使を務め、契丹の妨害を退け、三たび契丹に使いした。御史王平らに使者の体を失ったと劾せられ知吉州に出たが、諫官時代に劾奏した太常博士茹孝標との確執も絡んでいた。
- 儂智高の乱では広南西路の経制を委ねられ、李徳政(交阯)と結んで邕州で賊を挟撃する策を立て、狄青・孫沔とともに討伐した。狄青が軍法を厳正に執行した際、余靖は恐懼して謝したという。乱後は給事中に遷り、交阯の申紹泰の寇に対しては使者を派遣して自ら罪を認めさせた。
- 官は工部尚書に至り、卒した。蔡襄の言により刑部尚書を追贈され、諡「襄」を賜った。夢に神人が終焉の地を告げた話が伝わる。