宋史卷三百二十 列傳第七十九 王素

出自と諫官時代

  • 太尉王旦の季子。進士出身を賜り、屯田員外郎から御史中丞孔道輔の推薦で侍御史となり、知諫院に擢された。
  • 皇子誕生に伴う恩賞議論では、西夏・契丹の緊迫を理由に爵秩を戦功に留保すべきと争った。京師の旱に際して郊での祈雨を進言し、帝の予定を批判して的中させた。王徳用が二女子を進めたことを論じ、帝の私情を動かし、二女を退けさせた。
  • 天章閣待制・淮南郡転運按察使として、新設の按察使が苛を明と誤解する風潮の中、独り細故を摘発せず貪刻のみを繩治し、下吏に愛され畏れられた。

辺境の治績と晩年

  • 知渭州で市木による民の擾を理由に華州へ降され、後に元に戻った。原州蔣偕が大蟲巉堡を築く議で敵に阻まれ帰順を懇願した際、王素は責を負わせず自効させ、総管狄青の反対を退けて偕を援護した。
  • 知開封府として大雨で蔡河が決壊した際、動揺を鎮めるため塞門の役を止めさせた。知定州・成都府では牙校の酒坊銭負担を裁約し、鉄銭の弊を改め、蜀人はその政を「王公異断」と称えた。
  • 復知開封府では老いによる怠りが目立ち、盗賊が頻発して御史に糾弾された。治平初、夏人が静辺砦を寇すると端明殿学士として再び渭州を知り、三鎮の蕃夷を懐柔し、拓城・濬隍・積粟・招募の政を行った。羌の八堡を築いて居所を与え、募兵の実を挙げた。
  • 熙寧初、汾河の氾濫に際し堤を築いて平晋・州城を守った。知通進銀台司・工部尚書を経て致仕し、享年67、諡「懿敏」を賜った。

王鞏(王素の子)と王靖・王震(従子・従孫)

  • 子の王鞏は俊才で詩に長じ、蘇軾に従って游び、軾が徐州守の時に泗水に遊び魋山に登った故事がある。軾が罪を得ると鞏も賓州に竄られたが豪気は挫けず、後に宗正丞を歴任するも跌蕩な言動により議されて顕らかならなかった。
  • 従子の王靖(字詹叔)は祖蔭により通判鄴州・知滁州を経て、契丹の横使に対し虚声への警戒を疏言し、明経科の復活を請うた。利州路転運判官・提点陜西刑獄を歴任し、郷戸の力役制度を改めた。開封府推官として曹濮の盗を捕らえ、広南転運使として交阯来襲の噂に神宗より「王靖がいれば案ずるに及ばず」と評された。太常少卿・直昭文館・知広州を経て卒した。その子の王古(字敏仲)は司農主簿として賑旱・獄事に活躍したが、後に崇寧党籍に堕ちて衡州別駕に安置された。
  • 従孫の王震(字子発)は父の任により銓試優等で及第し、習学中書刑房公事から検正に進み、条例の脩纂に参与した。元豊官制施行に携わり、尚書右司員外郎として除目を自書し、栄誉とされた。市易勅を兼修した際、帝の詔諭に従い民の負債を捐じた。中書舎人・給事中を経て知開封府に至ったが、章惇との軋轢から獄事に連座して樞密都承旨より知岳州に落ち、そこで卒した。