宋史卷三百十一 列傳第七十 章得象

経歴

  • 章得象、字は希言。世々泉州に居し、高祖仔鈞は閩に仕え建州刺史となり浦城に家を構えた。母の方氏が身ごもった際、山に登り神人から玉像を授かる夢を見、生まれた父の奐も家庭に笏が積まれる夢を見た。長じて学を好み、美しい容貌と荘重さがあった。
  • 進士及第、大理評事・知玉山県、殿中丞・簽書兗州観察判官事・知台州・南雄州・洪州を歴任。楊億が公輔の器と推薦し「閩士は軽狭だが章公は深厚で度量がある、これが貴たる所以」と述べた。得象がかつて楊億と李宗諤の家で博打をし三十万を負けても平然と寝て、後日勝って一奩を得ても数日後の負けで反そうと未開封のままそっくり宗諤に返したという逸話に、その度量の広さが表れている。
  • 直史館、京東安撫、三司度支判官、尚書刑部郎中で契丹に使いし、兵部郎中知制誥、翰林学士、右諫議大夫、給事中兼羣牧使、礼部侍郎兼龍図閣学士、承旨兼侍講学士、同知枢密院事、戸部侍郎を経て同中書門下平章事集賢殿大学士を拝した。
  • 帝は「太后臨朝の時、群臣の邪正を朕は皆黙して見ていた。卿は清忠で誰にも阿らず、何も求めなかった。今日卿を用いるのはそのためだ」と語った。陜西用兵の際、中書侍郎兼工部尚書兼枢密使を加えられたが辞退し、翌年工部尚書のまま昭文館大学士となった。慶暦五年、鎮安軍節度使同平章事・郇国公に封ぜられ、判河南府に転じ、司空を守り致仕し薨じた。慣例で致仕官には乗輿の臨奠がないが、帝は特に赴いた。太尉兼侍中を贈られ諡は文憲、皇祐中に文簡と改諡された。
  • 得象は翰林に12年、章献太后臨朝の間、宦官が権勢を振るったが太后が学士院に内侍を遣わすたび、得象は正色をもって応対した。中書に8年間あって宗党親戚を一切引き立てなかった。仁宗が韓琦・范仲淹・富弼を重用し得象と共に急務を経画させようとしたが、得象は建策せず、御史孫抗がしばしばこれを非難し、得象は10通の辞表を上げようやく許された。初め閩人の童謡に「南台江合出宰相」とあったが、得象が相となった時、砂洲がまさに渡渉可能になっていたという。

史論――晏殊・龎籍・王隨・章得象

  • 殊・籍・隨・得象は皆孤生から起こり宰相の位に至った。籍は法令に通暁し、隨は民事に習熟し、いずれもその長所を発揮したが、籍は最終的に罷免され、隨も度々譴責された。その才の得難さがうかがえる。得象は渾厚で度量があり、殊は人物の推薦に努めた。四者を比べれば殊が最も優れていよう。

呂夷簡――出自と経歴

  • 呂夷簡、字は坦夫。祖の呂龜祥は寿州知事となり、子孫はそのまま寿州の人となった。夷簡は進士及第、絳州軍事推官から大理寺丞に累進。祥符中、材識兼茂明於体用科の試験があったが、封禅告成の後には闕政を問う必要がないとの意見でこの科は罷められた。通判通州、濠州に転じ、太常博士、河北の水害対応で知濵州、農器への課税廃止を上奏(天下で施行)し、提点両浙刑獄、尚書祠部員外郎を歴任。
  • 京師で宮観建設のため南方から材木を伐り出す際、有司が期限を厳しく責め工徒に死者まで出て亡命として妻子を収繫していたのを、夷簡は緩和を請い許された。冬の運搬の困苦にも配慮を求め、真宗は「国を愛し民を憂う心がある」と評した。刑部員外郎兼侍御史知雑事となり、蜀の賊李順が捕らえられ京師に送られた際、周囲は祝賀したが調べると誤りで、夷簡は真相を奏し大臣の不興を買った。
  • 蝗害・旱害に際し輔相に責任を求める姿勢を上奏し、李溥の専利罔上を弾劾した。寇凖が永興を治める際、罪人を湖南に流したことを京師の経由の道で凖が変事を訴えたのに対し、夷簡は「凖の下は厳しく、これは凖を陥れようとするものだ」と擁護した。趙安仁が御史中丞になった際、夷簡は親嫌を避け起居舎人・通進司勾当兼銀台封駁事に転じ、契丹への使いから戻り知制誥、両川の飢饉で安撫使、龍図閣直学士、刑部郎中、権知開封府(治は厳粛で評判が高く、帝が屏風に姓名を記し大用を期した)。
  • 仁宗即位後右諫議大夫に進み、雷允恭が永定陵の地を擅に移した罪を魯宗道と共に調べ允恭を誅させた。給事中参知政事となり、祥符天書を陵内に納めることを請うた。真宗の祔廟に際し、太后が生前の服玩を陵に添えようとしたのを、夷簡は「これでは先帝への恩に報いるに足りません、天下の政は両宮にあり、太后が姦邪を遠ざけ忠直を奨励し聖徳を輔けることこそ先帝への報恩です」と諫めた。慣例で郊祀の後は輔臣が昇進するが、夷簡と同列は皆これを辞退した(以後の慣例となった)。尚書礼部侍郎・国史修撰、戸部を経て同中書門下平章事集賢殿大学士・景霊宮使を拝した。
  • 玉清昭応宮の火災で太后が「先帝の遺志に背く結果になった」と嘆いたのに対し、夷簡は再建の意図を察し、洪範の災異説を引いて諫め、太后は沈黙。二府の宮観使兼務を廃するよう奏し、吏部・昭文館大学士監修国史に進み、国史の成るに及び進官を辞した。天聖末に中書侍郎を加えられた。
  • 章懿太后(仁宗生母)が順容として薨じた際、喪を秘したまま朝奏し、夷簡は「宮嬪が亡くなったと聞いた」と述べ、太后は驚き「宰相まで宮中の事に関わるのか」と迫った。夷簡は「太后は劉氏を全うされたくないのですか」と応じ、太后の意が緩んだ。有司が太后の意を忖度し葬儀の日取りを不利と言いなす動きを退け、発哀・成服・葬儀を整えさせた。大内の火災で百官の朝見ができなかった際、輔臣が対を請う中、夷簡だけが下拝せず「宮庭に変事あり、群臣は龍顔を望むのみ」と理由を述べ、帝が簾を挙げて姿を見せると初めて拝した。大内修復の使を務め、尚書右僕射兼門下侍郎を拝したが僕射を辞し吏部尚書兼となった。
  • 荊王の子が禁中で養育され成長した際、夷簡は退出させるよう請い、太后は帝の学問相手に残したかったが、夷簡は「上は年若く、親しむ相手が儒学の臣でなければ聖徳に益なし」と諫め、邸に戻された。太后崩御後、帝が親政を始めると夷簡は8事を疏陳し、帝は張耆・夏竦ら太后の任用した者を悉く罷免する策を夷簡と謀り、郭皇后に告げた。后は「夷簡は太后に阿らなかったわけではない、機巧に長けて応変が巧みなだけ」と評した。これにより夷簡も武勝軍節度使検校太傅同中書門下平章事・判陳州に罷免された。宣制の当日、夷簡自身も驚くほど突然のことで、内侍副都知閻文応を通じて、実は郭皇后が事の原因だったことを知った。
  • ほどなく夷簡は再び相となった。劉渙が太后への還政を求める上疏をし嶺外に流されそうになった際、夷簡が留めるよう請うていた。渙は前の疏を自ら述べて仁宗に右正言に抜擢され、夷簡に「かつて枢密院がすぐにも投獄しようとしたのを卿のおかげで免れた」と語った。夷簡は謝しつつ「渙は疏外の身だから言えたのだ、大臣がこれを言えば太后は必ず疑い、陛下から子母の不和を煽ったと見なされる」と述べ、帝は夷簡を忠と評した。
  • 郭后が怒って尚美人の頬を打とうとし誤って帝の頸を傷つけた際、帝が執政に爪痕を示すと、夷簡は先に罷相された恨みから廃后論を主導した。仁宗が躊躇うと、夷簡は「光武帝は漢の明主だが郭后を怨懟だけで廃した、まして陛下の頸を傷つけたのだから」と説いた。夷簡は廃后に先立ち有司に台諫の章奏を受理させぬよう命じ、御史中丞孔道輔・右司諫范仲淹らが伏閤して対を求めたのを、夷簡は道輔らを貶謫した。宗室の子を後継に加え大宗正を置き教授員を増やし、右僕射・申国公に封ぜられた。
  • 王曾と夷簡はしばしば争い、曾は夷簡が賄賂で恩を売ったと非難、夷簡は対決を願い出て曾が言に窮し二人とも罷免された。鎮安軍節度使同平章事・判許州から天雄軍に転じ、間もなく右僕射で復相、司空に進み辞退、許国公に転じた。契丹が幽薊に聚兵し侵攻の噂が立った際、洛陽築城案に対し、夷簡は「契丹は強を畏れ弱を侮る、洛陽を急ぎ築いても威を示せない、景徳の役でも親征がなければ契丹は服さなかった、大名に都を建て親征を示すべき」と反対した。「子囊が郢に城を築いた故事のようなもの、契丹が渡河すれば深池高城も頼りにならぬ」と述べ、北京(大名)を建てさせた。
  • 間もなく感風眩の病により司空平章軍国重事を拝し、数日おきに中書に赴き裁決した。手詔で「昔は髭が病を療すと言われた、今それを剪り卿に賜う」との言葉を受けた。3年後、帝が延和殿に召し、乗馬で殿門まで至らせ、輿を与えて労った。夷簡は固く老いを理由に致仕を願い出て太尉監修国史・軍国大事を中書枢密と同議する地位のまま太尉致仕となり、朔望の朝見のみ許された。薨じた際、帝は涙して「安得憂国忘身如夷簡者(夷簡のように身を忘れて国を憂う者がどこにいようか)」と嘆き、太師中書令諡文靖を贈った。
  • 仁宗初立から太后臨朝の十余年、天下が安泰だったのは夷簡の力に負う所が多い。その後元昊反乱で四方久しく用兵せず師は数敗し、契丹はこれに乗じて関南地を求めたが、夷簡の計画で名臣を遣わし契丹と交渉、西夏経略と併せ両辺を安定させた。ただし募った万勝軍に市井の脆弱な者を用い戦闘に堪えず、宗室に環衛官を補し奉賜を増やし、契丹への歳幣を金20万に加増した点は当時深く計られず、後にその費用が膨張し止められなくなった。郭后廃立の際、孔道輔らの伏閤諫言を「太平の事にあらず」として道輔らを逐い、范仲淹が百官図で人事の弊を論じたのに対しては狂肆として外に斥け、時論はこれを軽んじた。
  • 夷簡は国柄を最も久しく執り、言者の非難を受けても帝の信任は衰えず、斥けた士も間もなく復用され完全に廃されることはなかった。天下の事に対する処し方は臨機応変で、後に仁宗廟に配食され当代の名相とされた。かつて王旦が夷簡の才を見出し王曾に「善く交われ」と語り、結局曾と並んで宰相となった。曾家が御篆の墓碑を求めた際、帝は夷簡を偲び「懐忠之碑」の四字を賜った。文集20巻。子は公綽・公弼・公孺・公著(別伝あり)。

呂夷簡――子公綽

  • 呂公綽、字は仲祐。蔭補で将作監丞・知陳留県、天聖中に館閣の対読、直集賢院を辞して校理、太子中允を歴任。夷簡罷相の後、直集賢院同管勾国子監となり知鄭州。民の疾苦を尋ねると、老父が「官が民産を戸籍に記録し賦役の軽重を定めるため牛を多く飼うことすら憚る」と答え、公綽はこれを奏して以後牛は籍に入らなくなった。
  • 判吏部南曹、太常博士同判太常寺、太医局の復置と令丞府史の設置、優人の演戯に鈞容直の太常旌纛羽籥を借用させることを禁止させた。糾察在京刑獄。虎翼卒の劉慶が変事を告げたが調べると慶自身の陰謀で衆が従わなかったため賞を狙って誣告したもので、京師衛兵百万を懲らしめねば人心が揺らぐと述べ慶を斬った。
  • 尚書工部員外郎・史館修撰、夷簡薨後の兵部員外郎・修撰復職、太常寺同判兼提挙修祭器、郊廟祭器の未完備を憂え悉く改造を求め、薦新の礼制を整理して郊祀総儀にまとめ、周礼に基づく尊罍の使用や祖宗配郊の位置、真宗后の諡号を真宗の諡「章聖」に合わせ「章」と改めるべきことなどを建言し多く施行された。
  • 知制誥、龍図閣直学士、集賢殿修撰・知永興軍、樞密直学士知秦州。安遠砦の羌族が地を献上を申し出た際、「天下は広大なのに、区落尺寸の地を利とすべきでない」として却下した。弓箭手の馬不足に対し、諸砦戸を三等に分け十丁で一社とし秋成時に金帛で馬を求めさせる制度を設けた。刑部郎中、龍図閣学士・権知開封府を経て翰林侍読学士・知審刑院兼判太常寺。
  • 開封府時代、宰相龎籍の外戚の道士趙清貺が賄賂を受け杖殺された事件で、公綽が龎籍の意向で杖殺させ滅口したとの疑いを御史から受け龍図閣学士・知徐州に左遷されたが、実際は当時の管轄下ではなかったため後に自弁して侍読学士に復し、河陽に移った。経筵に留められ、旱に際して「獄が久しく決せられないと寃罪の者が旱をもたらす」と説き帝が親しく囚人を審理すると大雨が降った。右司郎中に遷る前に卒し左諫議大夫を贈られた。公綽は通敏で才があったが、父が政を執っていた頃は多くの請託を受け名を好み人に取り入る者に利用されたとも言われる。

呂夷簡――子公弼

  • 呂公弼、字は寳臣。進士出身を賜り直史館・河北転運使に累進。宝元・慶暦以来の辺備で将屯の民が疲弊していたのに対し、御河の漕運を通じ塞下に粟を実らせ、冶鉄で経費を助け、近辺の屯兵を京東で就食させ、城卒に築城を給し冗賦と民の逋負数百万を蠲除した。夷簡が薨じた際、仁宗は殿柱に公弼の名を記していたことを問い、その材を評価し都転運使に抜擢、龍図閣直学士・知瀛州、開封府権知を歴任。
  • 帝が公弼の父似の政治を評した。同羣牧使、枢密直学士・知渭延二州、成都府転運使。治は寛容で威断を疑われたが、営卒の抗命を「杖は国法、剣による処刑は汝が求めたこと」と処した。英宗が蔡襄に代え公弼を三司使に任じた際、以前羣牧使時代に帝が藩邸で得た劣馬を交換しなかったことを帝が覚えていたと述べた。蔡襄の訴訟処理を継いだ際、蔡襄の勤勉を弁護し、帝はこれを長者と評した。
  • 樞密副使に拝し、諫官と大臣の異議に対し「諫官御史は陛下の耳目、執政は股肱、互いに用い合ってこそ身は安く元首は尊い」と述べた。彗星出現に対し「陛下は身を慎み修徳して天戒に応ずべき、患いは辺境にはない」と論じた。神宗即位後、司馬光が内侍高居簡を弾劾した際、帝の裁断を促し「光と居簡は勢両立せず、居簡は内臣、光は執法官、重い方を選ぶべき」と進言し、居簡を一官遷し近職を解く提案が採用された。
  • 枢密使に進み、環慶・鄜延を一路に併せる議に「白草から定遠まで千里も離れており、一路にすれば急変に対応できない」と反対し、王安石が公弼が己に付かないのを嫌い弟の公著を御史中丞に用いて公弼に迫った。陳升之が四十歳以上の衛兵を減らし淮南に移す議に「非人情」と反対したが帝は退けた。韓絳の肉刑復活案に反対し、王安石の新法を静観すべきと述べたが、従孫の嘉問が公弼の疏の草稿を安石に見せ、帝の不興を買い観文殿学士・知太原府に左遷された。
  • 韓絳が秦晋を宣撫し囉兀城攻略のため河東から二万を発した際、公弼は「虜は必ず伏兵を敷く、永和関経由なら安全」と述べたが、新路の援兵は案の定伏兵に遭い、後にこれが功として褒められた。麟州の水源が城外の沙泉しかなく夏人の包囲時に渇死者が出た問題に、鄧子喬の計を用い古の拔軸法に倣い泉を城内に包む工事を成し遂げた。疾により知鄭州に転じたが、王韶が熙河を取った際、秦鳳帥として公弼が起用され、宣徽西院使判秦州を拝した。羗の董氊が敕を称して書を送った際「藩臣が妄りに敕を称することができるか」と却下し董氊はこれを畏れた。旬月ののち疾により西太一宮使に転じ、享年67で薨じ、太尉諡曰惠穆を贈られた。

呂夷簡――子公孺

  • 呂公孺、字は稚卿。奉礼郎、進士出身を賜り判吏部南曹、対応は詳明敏捷であった。仁宗にその才を認められ知澤・頴・廬・常四州、提点福建河北路刑獄を経て開封府推官。薪を売る民を盗人が奪い追ったところ却って傷を負わされた事件で、尹の包拯が盗人への笞刑を命じたのに対し「盗んで人を傷つけた者を笞だけで済ませられない」と拒み、拯もその節度を評価した。三司使に転じ判官として決を仰がれ、判都水監、陜西転運使を歴任。
  • 神宗が綏州を得た際、放棄すべきか議論が決しなかったところ、郭逵と議して存続を決した。常平法施行時、青苗・免役を提刑司に帰すべきと請い、知渭州・鄆州に転じ、死刑判決の誤りで責を負い知蔡州。元豊初、帝は「長安の帥に卿に代わる者はいない」と知永興軍に任じ、河陽に転じた。洛口の兵千人が久役に耐えかね関を排して河橋方面へ走った際、諸将が討伐を求めたのに公孺は「これは亡命者の急変」として単独馬で乗り込み首謀者一人だけを黥面刑にし残りは役所に送り返し、収拾させた。命令に背けば斬ると告げ、専断の罪を自劾したが釈された。
  • 知審官東院、知秦州で李憲が原渭に兵を集中させようとしたのに反対し相論となり相州に移り、陳・杭・鄭・瀛四州を歴任。元祐初、龍図閣直学士に加えられ秦州に再任を固辞し祕書監、刑部侍郎、知開封府に転じ、政は寛恕に努めた。幕人が黼を毀損し徒刑に処すべき数十人の吏に対し杖刑で免じた。原廟の珠が失われた事件で典吏を長年拘留していたのを「担当が交代した以上、珠の授受を誰が証明できるのか」と釈させた。戸部尚書に拝し病により醴泉観提挙、卒年70で右光禄大夫を贈られた。公孺は廉潔で人と交わることが少なく、曹佾の喪を扶助し厚い謝礼を辞退したことで清節を称された。