経歴
- 王隨、字は子正。河南の人。進士に及第し、将作監丞・通判同州、秘書省著作郎・直史館、判三司磨勘司、京西転運副使を歴任。真宗より詩を賜り栄えある帰省をした。淮南転運使、父の喪に起復し、河東転運使、刑部員外郎兼侍御史知雑事、知制誥(制辞不善で罷免)、知応天府を歴任。開封府知府、太子右庶子(仁宗を東宮として)、周懐政誅殺の際に懐政から白金50両を借りたと自陳し知制誥を奪われ給事中・知杭州となった。
- 乾興初、秘書少監、知通州、光禄卿・知潤州、江寧府知事を歴任。江寧の大飢饉に際し転運使が常平倉米を口数に応じ配給しようとしたが、隨は「饑饉は兼併と閉糴による高価買い占めが原因」として官粟を大量に放出し価格を安定させた。
- 給事中・龍図閣直学士・知秦州、逃亡兵を許す政策で帰順を促進、蕃落卒を増員し廃地を募民耕作させることを建言。河南府知事、御史中丞、礼部侍郎・翰林侍読学士、明道中に江淮安撫使、戸部侍郎参知政事を歴任。門下侍郎同中書門下平章事・昭文館大学士監修国史を拝したが、薛居正以後の慣例で新任宰相が門下侍郎に越遷しないとの故事に反したのは学士丁度の失であった。
- 疾で在告のまま5日ごとに参内、宰相在任1年間実績なく、陳堯佐・韓億・石中立と共執政のうちしばしば争い、災異による諫官韓琦の弾劾で4人とも罷免され、彰信軍節度使同中書門下平章事・判河陽に降り薨じた。中書令を贈られ諡は章恵、後に文恵と改諡。外見は方厳だが治は寛に流れ、晩年は短気になり人を罵ることもあった。仏を好み裴休の人柄を慕ったが、その風格には及ばなかった。