宋史卷三百十一 列傳第七十 龎籍

経歴と辺境での治績

  • 龎籍、字は醇之。単州武成の人。進士に及第し、黄州司理参軍となる。知州の夏竦がその宰相の器量を認め、開封府兵曹参軍・知府薛奎に法曹として推薦された。大理寺丞、知襄邑県、天聖編敕の修撰、刑部詳覆官、羣牧判官を歴任し、国馬を臣下に貸すべきでないと建言した。
  • 殿中侍御史となり、章献太后遺詔で章恵太后が軍国事を議すこととなった際、垂簾の儀制を廃棄するよう請い、また邪正を弁え朋党を防ぐよう奏した。開封府判官の時、尚美人が内侍を使い教旨と偽って商人の税を免じさせようとしたのを、祖宗以来の慣例違反として制止した。范諷の罪を劾したが取り上げられず、逆に宮禁の事を実らしめずに奏したとして貶され広南東路転運使に降格。福建転運使、景祐三年侍御史、刑部員外郎知雑事、判大理寺、天章閣待制を歴任。
  • 元昊反乱時、陜西体量安撫使となり、開府の府吏馮士元が女口を市買した罪で知汝州に降格、同州、陜西都転運使に転じた。黄徳和の獄で文彦博が調べたところ、籍は「徳和は退怯にして誅すべきであり、力戦して没した劉平の子孫を恤むべき」と建言。天久しく雨がなく宮中費用の奢靡と冗費の裁抑を求め、西鄙で戦う将士を賞せず内官・楽官が功もなく厚賜を受けている実態を「三官」と称して指弾した。
  • 龍図閣直学士・知延州、鄜延都総管経略安撫招討使を経て延州観察使に改任されたが辞退し左諫議大夫に換えた。元昊の侵攻で荒廃した金明・承平・塞門・安遠・栲栳砦一帯を修復、招安砦・龍安砦を築き、失地を回復して十一城を築いた。元昊が偽りの和議書を送った際、籍は詐と見抜き青澗城に屯兵、案の定その後大寇があった。元昊が再び使者を送った際、その称号「寧令(謨寧令)」を用いる書面上の表現を正当化して朝廷に説き、朝廷はこれに従った。曩霄と改名し臣を称さない元昊の使者を京師に送らせ、直談判により和議を進めさせた。
  • 元昊が臣従した後、籍は枢密副使となり、辺費の削減、官属併省、近塞の兵を内地に退かせることを建言。参知政事、工部侍郎、枢密使、戸部、同中書門下平章事・昭文館大学士・監修国史を歴任。儂智高反乱の際、狄青を宣撫使に任じることに諫官韓絳が反対したが、籍は「文臣を副えれば号令が分かれる」と主張し、単独派遣が採用され、平定に成功した。帝が狄青を枢密使同平章事にしようとしたのを籍が力争して阻止した。
  • 齊州学究皇甫淵の賞金求めをめぐる事件で、道士趙清貺が籍の姻族と組んで賄賂を受けたと訴えられ、清貺は捕らえられ配流先で死んだ。韓絳は籍が府に杖殺させ口を封じたと弾劾したが調べても証拠なく、それでも言い止まず籍は知鄆州に左遷された。観文殿大学士・昭徳軍節度使・知永興軍・并州を歴任。仁宗の不豫に際し密かに賢明な宗室子を皇子とするよう上疏した。麟州で築堡を許可した件で州将武戡らが夏人に敗れた責を負った。
  • 観文殿大学士・戸部侍郎・知青州、尚書左丞(不拝)、知定州を経て京師に召還され致仕、頴国公に封ぜられ、享年76で薨じた。仁宗不豫のため廃朝・臨奠は果たされず、使者を遣わして弔賻し、司空兼侍中・諡莊敏を贈られた。籍は律令に明るく吏事に長じ、法の運用は厳しく軍中では斬刑・磔刑を辞さなかったため士卒は畏服したが、宰相在任中の声望は地方官時代に及ばなかった。子の元英は朝散大夫、孫は恭孫。

孫恭孫

  • 龎恭孫、字は徳孺。蔭により通判施州。崇寧中、蛮族の向文疆の反乱に際し、転運使王蘧の指示で説得により降伏させ斬った。功により知涪州に進み、開辺を自任、珍州の駱文貴・承州の駱世華の帰属を得たが費用がかさみ、転運判官朱師古に生事と弾劾された。師古が黜けられ恭孫が代わったことで、溱・播・溪・思費等の州が次々に降り、五年間に徽猷閣待制まで累進した。
  • 威州守として保州・霸州の招撫を進め、成都府知事として董舜咨・董彦博らの帰順を果たし、京師に召され承宣使を拝させた。「保州・祺州・霸州・享州」と改名させ更に築城を進めたが、貪縦を論じられ保静軍節度副使に謫された。すぐに知陳州に起用され、瀘州・思州で経略を続け前後20年に及んだが、実は瘠地が多く運費だけがかさみ蜀の民の負担となった。得た州県の多くは廃されたが、宣和中に卒した。