出自と抜擢
- 晏殊、字は同叔。撫州臨川の人。7歳で文を作れる神童として、景徳初年に張知白が江南安撫使としてこれを見出し朝廷に推薦した。真宗が召して進士千余人と共に廷試させたところ、殊は臆せず即座に書き上げ、帝はこれを嘉して同進士出身を賜った。宰相寇凖が「殊は江外(江南)の人だ」と難じたが、帝は「張九齢も江外の人ではないか」と退けた。
- 後日再び詩賦論を試すと、殊は「臣はかつて私にこの賦を学んでおります、他の題でお試しください」と申し出、帝はその正直さを愛でこれを称賛した。秘書省正字に抜擢され、秘閣で読書、直史館を命じられた。陳彭年がその交遊を観察し常に称賛した。
累進と太后期の建言
- その後、太常寺奉禮郎、東封の恩により光禄寺丞、集賢校理を歴任。父の喪により一時官を退くも起用され、太清宮の祀りに従い、寳訓の修撰、太常礼院の同判を務めた。母の喪でも服喪を願い出たが許されず、太常寺丞、左正言・直史館、昇王府記室参軍、尚書戸部員外郎、太子舎人、知制誥・判集賢院、翰林学士、左庶子を歴任した。
- 仁宗即位後、章献明粛太后が遺詔により政を執ると、宰相丁謂と枢密使曹利用がそれぞれ独占して奏事しようとして議が決しなかった。殊は「群臣が太后に奏事する際は垂簾の礼とし、みな単独に見えることを禁ずるべき」と建言し、これが定められた。右諫議大夫兼侍読学士に進み、東宮の旧臣として給事中を加えられ、真宗実録の修撰に参与し、礼部侍郎、枢密副使を拝した。
- 張耆を枢密使に任じるべきでないと上疏し太后の意に逆らい、玉清昭応宮に従駕した際、従者が笏を持って遅れて来たのに怒って笏で殴り歯を折ったことを御史に弾劾され罷免、知宣州となった。数月後、応天府に移り、范仲淹を招いて生徒を教えさせた。五代以来廃れていた天下の学校興隆は、殊がその始まりであった。
太后没後の宰相拝命と失脚
- 御史中丞、資政殿学士兼翰林侍読学士、兵部侍郎兼秘書監、三司使、再び枢密副使を歴任。太后が太廟に謁する際、衮冕の着用を望む議があり、太后が殊に問うと、殊は周官の后服を典拠に答えた。太后が崩ずると礼部尚書として罷免され知亳州、徙陳州、刑部尚書、御史中丞兼三司使を歴任。
- 陜西で用兵の際、殊は内臣による監軍の廃止、陣図によらず諸将に応敵させること、弓箭手を募り訓練すること、宮中の余剰物資を辺費に充てること、他司が管理する財利をすべて度支に還すことなどを建言し施行された。康定初年、知枢密院事、枢密使、同中書門下平章事に進み、慶暦中に集賢殿学士同平章事兼枢密使を拝した。
- 殊は平生賢者を好み、范仲淹・孔道輔ら当代の名士が皆その門から出た。宰相となってからは人材登用に努め、范仲淹・韓琦・富弼らが台閣に進んだ。しかし小人権幸はこれを喜ばず、殊は歐陽修を河北都転運に出した。諫官がこれに反対したが聞かれなかった。孫甫・蔡襄が宸妃(仁宗生母)墓誌を殊が書きながら生前口をつぐんでいたことを非難し、また役官兵に舎屋を修繕させ利を図ったことを弾劾され、工部尚書・知頴州に降格された。実際にはこの兵役は輔臣の慣例による借用であり殊の罪ではないとされたが、陳州・許州に転じた後、礼部・刑部尚書に復した。
- 明堂の祀りに参列、戸部を経て観文殿大学士・知永興軍、河南府、兵部を歴任。疾により京師に戻り医薬を求め、平癒後もなお出守を求めたが、経筵侍講に留められ、五日に一度参内を許され宰相並みの儀従を賜った。翌年病が篤くなり、帝が見舞いに赴こうとしたところ殊は「臣は老いた病に過ぎず、陛下のご心配には及びません」と自ら奏し、間もなく薨じた。帝は臨奠したが病中に見舞えなかったことを悔い、特に朝を二日止め、司空兼侍中を贈り、諡は元献。碑首に自ら「舊学之碑」と篆した。
- 殊は性剛直かつ簡素で、州吏民はその厳しさを畏れた。人を見る目に優れ、富弼・楊察はともにその婿である。殊が宰相兼枢密使であった時、弼が副使となったが辞退を許されなかったほど信任が厚かった。文章は華麗で応用に窮せず、特に詩に優れ閑雅な情趣があった。晩年まで学を怠らず、文集二百四十巻、梁陳以後の名臣述作を選んだ集選百巻がある。子の知止は朝請大夫となった。