宋史卷三百十一 列傳第七十 張士遜

経歴

  • 張士遜、字は順之。祖の裕は隂城塩院を主管しそのまま隂城に家を構えた。士遜は生後百日で初めて泣いたという。淳化中に進士に挙げられ鄖郷主簿、射洪令。転運使が郪への転任を命じたが民が馬前を遮って引き止め射洪に留まった。安撫使が問うと知州張雍は「射洪令が第一」と評した。襄陽令、秘書省著作佐郎知邵武県では寛厚により民心を得た。以前射洪で旱の際、白崖山陸史君祠に雨乞いをし、雨足が定まるまで庭中に立ち続けたところ大雨が降った故事があり、邵武でも同様に雨乞いをして霖雨を得た。
  • 秘書丞監折中倉、御史台推直官を歴任。翰林学士楊億が監察御史に推薦。貢挙に糊名法が初めて用いられた際、士遜は進士に姻族があるとして自ら回避を申し出、真宗が御屏にその名を記して以後親嫌者は試験を移すことが規則化された。中書が士遜を江南転運使に擬したが二度とも却下され、帝が独自に用いた。侍御史、広東、河北を歴任。河が棣州を侵し州を陽信に移す議で糧の遷移が困難と反対する声があったが、士遜は瀕河諸州の余剰穀物を貧民に貸し翌年陽信への輸送で返済させる案で公私ともに利を得た。
  • 仁宗が東宮を出た際、帝は「翊善記室は府属であり、王が受拝するので士遜を友とし答拝させよ」と述べ、戸部郎中直昭文館・寿春郡王友、昇王府諮議参軍、右諫議大夫兼太子右庶子、左庶子を歴任。皇太子が資善堂で拝礼の際なお跪くのを座して受けるべきと建言、太子出入りの陪従を許された。判史館・知審刑院、太子賓客・枢密直学士・判集賢院を経て太子詹事に換わり、枢密副使、給事中兼詹事、尚書左丞に累進し、礼部尚書同中書門下平章事集賢殿大学士を拝した。
  • 曹汭の獄事で宦者羅崇勲・江徳明が曹利用を讒言し帝が疑った際、執政が皆躊躇う中、士遜だけが「これは不肖な子が単独でしたこと、利用大臣は関知していないはず」と述べ、太后は怒って士遜を罷免しようとしたが、帝は東宮の旧臣として刑部尚書・知江寧府とし解通犀帯を賜った。定国軍節度使知許州を経て明道初に再入相、中書侍郎兼兵部尚書、翌年門下侍郎昭文館大学士監修国史。
  • 旱蝗の年、士遜は漢の故事にならった策免を請うたが許されず、帝が自ら尊号を損じたのに応じ士遜も降官を請うた。羣臣が皇太后(楊太妃)の諡号を奏し謝すべきところ、士遜が同列と楊崇勲の園で酒宴し日中に参内しなかったことを御史中丞范諷に劾され、尚書左僕射・判河南府に降格。崇勲も使相・判許州となったが翌日の謝礼班次で崇勲が下位になった理由を問われ「崇勲は使相、臣は僕射だから位は下」と答え、山南東道節度使同中書門下平章事・判許州に転じた。士遜罷免後も数日の間、制書に宰相の官職が誤って用いられたが有司はそのまま奉行し訂正しなかった。河南府に移った。
  • 寶元初、門下侍郎兵部尚書で再入相、郢国公に封ぜられた。帝が「宮人を放出したのは幽閉を憐れむのみならず浮費の節約でもある、近ごろまた美女の献上者を拒んだ」と語ると士遜は「これは盛徳の事」と応じた。帝が「近頃の言者は大臣を毀り君主の過を挙げる者までいる」と述べると士遜は「陛下が邪正を審察されれば憸訐の徒は自ら戒めるでしょう」と答えた。
  • 馮士元の獄が固まった際、決獄を問われた士遜は「台獄が阿ることは陛下の宸断でなければ中外の議論に応えられない」と述べ、帝が「君子と小人に党はあるか」と問うと士遜は「あります、ただし公私の別があります」と答え「法令が必ず行われ正邪の別が立てば朝綱が挙がる」との対話があった。康定初、士遜は久しく辺境に戍する禁兵の家が京師で困窮している問題を訴え、帝は内侍に条例を作らせ内蔵から緡銭10万を賜らせた。陝西安撫の使者派遣を建言し帝は知制誥韓琦を遣わした。以後樞密院は辺事を士遜らと参議するよう詔された。
  • 輦官を禁軍に簡選する政策に、輦官が妻子を連れ宰相・枢密院の門前で喧訴する騒動が起き、士遜が朝馬に乗る際に驚いて落馬した。多事な時期に士遜は建策なく、諫官韓琦は「政事府は病を養う場ではない」と非難した。士遜は自ら安んじず辞表を重ねて上げ、太傅・鄧国公に封ぜられ致仕した。朔望の朝見と大朝会での中書門下の班次への参列、一子への五品服が許された。士遜は朝参を辞退し中使が朔望の間に見舞い、御書の飛白「千歳」の字を賜り千歳堂を建てた。かつて城南の官園購入を求め帝がこれを賜った。宰相が謝礼を受け致仕した先例は士遜から始まる。就第から10年で享年86にて卒し、帝は臨奠し太師中書令諡文懿を贈り「舊徳之碑」と御篆した。
  • 士遜は生後7日で母を失い姑に育てられ、姑に孝謹を尽くし、姑の死には徒跣で柩を扶けて葬るほどであった。姑は南陽県太君に追封された。かつて陳堯佐が参知政事を罷免された際、怨みを持つ者が謀反を誣告し、さらに諫官が宗室に密かに付いていると誣告する動きがあったが、士遜は「憸人が善良を陥れ姦偽が一度開けば自らも保てなくなる」と述べ、帝は悟って告発者を罪に処し、諫官への誣告事件も不問に付された。ただし曹利用が枢密府で寵を頼み威を肆にしていた頃、士遜はその間にあって是非を明らかにせず、当時「和鼓」と揶揄された。士遜はかつて女口を宮中に納め御史楊偕に劾されたこともあった。

子友直・友正

  • 子の友直、字は益之。初め将作監主簿に補せられ丞に累進。士遜が館閣校勘を求めたが仁宗は「館閣は英俊を待つ場、認められない」として館閣で読書だけを許し校勘は員数を増やさないよう詔した。後に三館書籍の編纂に携わり秘閣校理、同知礼院、進士出身を賜り知襄州となったが、軍賊張海の剽劫を制止できず罷免。史館修撰に除せられたが御史何郯が「史館修撰は知制誥の試験を経るのが慣例、友直はこれに当たらない」と論じ集賢殿修撰に改められた。天章閣待制知陜州同勾当三班院、集賢殿の宴で緋衣のままだったのを仁宗が見て金紫を賜った。工部郎中に累進し知越州、毎春民が財を集め僧道と女性を集めて「祭天」と称する風習を禁じ、集めた財で学校を建て諸生を養った。官に在って卒した。
  • 士遜がかつて仁宗の東宮時代の旧事を記していたが史官がまだ知らず、友直がこれを纂めて「資善録」として上程した。幼子の友正、字は義祖。門を閉ざし家事に関わらず、小閣で30年間書を学び続け、神宗はその草書を本朝第一と評した。

史論――呂夷簡・張士遜

  • 呂夷簡・張士遜はいずれも儒学で身を起こし輔弼の位に列した。仁宗の世、天下は太平に承け寛厚をもって時に応じて治め、両宰相に力があった。士遜は民事に習熟し風跡は記すべきものがあるが、曹利用に依違して譏りを受けた。夷簡は下僚の頃、父の呂蒙正が宰相の器量を期待し、宰相となってからは深謀遠慮に古の大臣の風があった。位が長く続いたことで恩を収め怨みを避ける策に傾き、郭后廃立を成した過ちは大きい。とはいえ呂氏一族が三代四人にわたり国政を執った盛事は、他に類を見ない。