辺境防衛の経歴
- 閻日新、宿州臨渙の人。若くして本州の牙職を務め、三司の使役吏に補せられた。淳化中、寿王府に選ばれ邸中の記簿を主管した。真宗即位後、供奉官に抜擢され雄州・霸州・靜戎軍の榷場を提点、咸平元(998)年、内殿崇班に遷り永興軍駐泊都監に転じ、剣門関知事を兼ね剣門県を知り、供備庫副使を加えられ慶州都監となった。景徳初、邠州・寧州・環州の駐泊兵馬を管勾する命を受け、当時部署の張凝がしばしば辺境に入り族帳を焼く作戦を行い、閻日新は皆兵を率いて応援した。まもなく涇州知事となり、まもなく慶州に転じ、野溪・三門等の族が険阻を頼んで桀黠で制しがたいため、古川道を開削し東は楽業鎮、西は府城に至る道を開くよう上言し容れられた。まもなく供備庫使に転じ環州知事兼邠寧環慶路鈐轄・縁辺都巡検使・安撫都監となり、まもなく涇原儀渭路二州に転じた。2年、如京使に遷り万州刺史を領し、上の朝陵・東封に際し行宮使を命じられた。大中祥符初、文思使に改まった。
- 閻日新は胥吏出身で栄進を好み、上言して蔭による官を得た群臣子弟がしばしば未だ童齓(幼少)のうちから俸禄を受けていることを問題視し、20歳以上でなければ廩を給しないよう求めた。また京城の百官の早朝の際、学士・丞郎・舎人以上の導従(先導)が過剰で避けるのが困難だとして削減を求めた。しばしば対面を求め建言を重ね、自ら筋力がまだ壮健であると陳述し正式に刺史郡・辺城を守り効力を尽くしたいと願い出、まもなく坊州刺史を拝命し渭州知事兼涇原路駐泊鈐轄となり、汾陰祭祀に際し同州知事に改められた。事務の信頼が篤く、この年、車駕が到着した際迎謁して方物を献じ、慰問を受けて長く祭祀に従った際、襲衣・金帯を賜り、帰路に新市鎮で綵楼と楽伎を設けて駕を迎えた。翌年、徐州知事に転じ、代わって帰り足の病により軍衛大将軍・昭州団練使を領し単州知事となったが病が悪化し、帰京を許され天禧初、卒す、年68。