宋史卷三百九 列傳第六十八 靳懐徳

治績と改名の由来

  • 靳懐徳、博州高唐の人。祖父の昌範は殿中丞、父の隱は禹城令。靳懐徳は太平興国中、明法により広安軍判官に解褐、任期満了後に鴻臚寺丞を授かり著作佐郎・太子左賛善大夫を歴任、相州通判となり殿中丞に改まり広州通判に転じ、国子博士に遷り滄州通判となり、虞部・比部員外郎を歴任、また莫州通判・徳州知事を務めた。咸平中、契丹の入寇に際し徳州を固守、転運使劉通がその善政を報告し褒賞の詔が続いた。密州知事に転じ、留後の孔守正の任地代替に伴い代わって帰り、塩鉄使陳恕の判官王濟がその武幹を推薦し如京使・卭州知事に改まった。靳懐徳の本名は湘であったが、寇凖の門下に長く遊学し、寇凖の父の名が湘であったため、景徳中、寇凖が宰相となった際に改名した。まもなく滄州知事に転じ、大中祥符初、召還され再び任地に赴いた。吏民が転運使李士衡に靳懐徳の留任を借留するよう求め、士衡がこれを上奏、まもなく文思使に遷った。3年秋、江左の旱害凶作に際し洪州・虔州等十州の安撫都監を命じられたが赴任前に曹州知事に改まり、翌年春、益州鈐轄に遷り長州刺史を加領した。靳懐徳は歴官において強幹と称されたが、酒に酔って過ちが多く、赴任の際に別に戒める詔が出され、真宗も自ら諭した。まもなく善職として北作坊使に遷り、剣外にあって軍民は畏愛した。復して西上閤門使を拝命し、昭州刺史を領し澶州知事に改まり、この州は水陸の要衝であり靳懐徳は心を尽くして撫治し治績を著し、往来の使者が皆その評判を称賛した。また陝州知事となり1年余り後に朝に帰る途上で卒した、天禧元(1017)年、年73。

史論

  • 世に完璧な人材がいなければ、各々その長所を録用しても事は成し遂げられる。楊允恭は心計に優れ言事を好み、当時、山塩・海鹽の摘発と舟運の規制がまだ整っていなかったため、その建言に従って大きな利益を得た。秦羲もまた精心敏職で士大夫はその蘊藉(度量)を認めた。謝徳權は清廉で強忮(強硬)と評され矯名を好んだが、謝泌を大臣に受辱を強いるべきでないと斥けたのは、堂陛の分をわきまえ長者の言と言うべきである。王延徳以下は機に恵まれて昇進を重ね任にあたったが、その治績にはそれぞれ取るべきところがある。