宋史卷三百九 列傳第六十八 秦羲

財貨の任と統治

  • 秦羲、字は致堯、江寧の人。代々江左に仕えた家。曾祖の本は岳州刺史、祖父の進逺は寧国軍節度副使、父の承裕は建州監軍使知州事であった。李煜の帰朝に際し承裕は秦羲を派遣して符印を朝廷に献上させ、太祖はその応対の慎重さを喜び殿直に補し広済漕船を督させた。太平興国中、南唐軍校馬光璉らが亡命し荊楚に結党して盗賊となった際、秦羲は詔を受け馬光璉を縛って献上、太宗はこれを壮とした。功労を積んで西頭供奉官に改まり、淮南諸州で断獄を行った。淳化中、また洛南での銅採掘を督し、雷有終がその心計の巧みさを称え興国軍茶務の監に遣わした。楊允恭が茶塩法を改める際、秦羲を推薦して真州権務を掌らせ、まもなく淮南西路茶塩を提点し余剰10余万を得、楊允恭と共に江淮制置となり閤門祗候・制置礬税兼務に抜擢された。咸平初、入奏し真宗は面と向かって慰労した。淮南の榷塩は2年で銭83万余貫の増収となり、その功で内殿崇班に改まり、また荊湖路の制置を兼ねた。江南の群盗が久しく民の患いであったが秦羲がこれを討伐し尽くした。4年、発運使事を領し供備庫副使に改まり、榷酤(酒税)の増収を毎年18万緡建議したが、収益が多い割に下に厳しいと評され、旱魃の年に詔で廃止された。景徳初、供備庫使に遷り江陵府知事となったが官の推薦が実情に合わないと連座して降格され、大中祥符初、供備庫副使に起用され宿州監軍となり、まもなく東染院副使に遷った。
  • 翌年、広州から澄海兵がかつて宜州の賊を討伐した恩を頼み桀驁で軍中で制御できないため京師に送還したいと報告があった際、上は遠方の大鎮に材幹の臣を得て鎮撫すべきとし、宰相が数人を推薦したがいずれも意に沿わず、上は「秦羲がこの任に当たれる」と述べ、再び供備庫使を授け広州鈐轄を充てた。東染院使・蘇州知事を歴任、崇儀使に改まり在京諸司庫務を提挙、対面で藩郡への任命を求め内園使に遷り泉州知事となった。天禧4(1020)年、代わって帰る途上で病により卒す、年64。秦羲は書を知り詩を好み賓客を喜び士風があり、財貨の任にあたること十余年、精勤練達で職に称うと評された。