宋史卷三百九 列傳第六十八 楊允恭

蜀の平定と海賊討伐

  • 楊允恭、漢州綿竹の人。家は代々豪富であった。楊允恭は若くして倜儻(度量広く)任侠の気質があり、乾徳中、王師が蜀を平定した後、群盗が蜂起し、楊允恭はまだ弱冠であったが郷里の子弟を率いて清泉郷に砦を築いたところ賊に捕らわれ殺されそうになった際、「もし我を活かせば必ず助力する」と言い、賊もその豪門の子であると知り釈放した。密かに賊帥の子と交わり日々博打をし、わざと負けて財を償わせ、賊将を害する機を窺わせた際、その子がこれを賊将に告げたため楊允恭は逃げた。内客省使丁徳裕が討賊のため州に至った際、楊允恭は策を献じ、綿州・漢州招収巡検に署せられ、賊平定後に殿前承旨に補せられた。太平興国中、殿直として広州市舶(海外貿易管理)を掌った。南漢滅亡後、海賊の子孫が相継いで拠点を持ち大きな者は数百人に達し州県は苦しめられていた。楊允恭は輸送の任にあたり実情を上奏、太宗は広連都巡検使に任じた。海塩が嶺北に密輸され民の犯罪が多かったため、大庾県を建てて軍官に塩を専売させるよう請い、詔で南安軍が建てられ以後密輸は減少した。葉氏という賊が5百余の衆で海上を往来していたため、楊允恭は水軍を集め軽舠を造ってその首領を奇襲し斬った。残党は船を捨てて山谷に逃げ隠れたため、楊允恭は木を伐って道を開き殲滅した。賊は風濤があると洲島の間に隠れるが、楊允恭は海を渡って追跡しほぼ捕らえ尽くし、賊は皆風を望んで逃げ潰えた。また漳州・泉州に至り賊が捕らえていた男女60余口を奪還し家に帰した。詔書で嘉奨され銭10万を賜り供奉官に転じた。
  • 帰任の詔を受け内殿崇班に改まった。当時、江沿いに賊が多く、江南の水運を督させられ、賊党を捕らえながら臨江軍に至り、驍卒を選んで軽舟を操らせ、下流の江で賊の潜伏地を偵察させた。夜、軍城を三鼓で発したところ賊百余に遭遇し激戦の末に悉く首を晒した。また通州境上に赴き海賊を追い、賊は多くの舟を連ねて幕を張り強弩と小砲を発したが、楊允恭の兵刃は多くその幕に絡まり、砲が楊允恭の左肩に当たり流血し袖を濡らしても容色はますます壮んで、善泳者に鉄鈎付きの縄を投げさせその幕を壊させると士卒が争って進み、水に落ちて死ぬ賊が大半に達し数百人を捕えた。以後、江路に劫掠の患いはなくなり、その功で洛苑副使・江淮両浙都大発運に転じ、茶塩の取り締まりと捕賊の事を掌り、紫袍・金帯・銭50万を賜った。以前は三路の転運使がそれぞれの職を管掌し、廩庾(倉庫)は積み溜まっても軍士の舟楫は不足していたため官銭で丁男を雇い舟を挽かせていたが、土人はこの役を嫌い上供米は3百万を超えなかった。楊允恭は三路の舟卒とその運搬物資の数を悉く記録し、各州で牙吏を選び集めさせ効率的に配分したところ、江浙の運搬物は淮泗までとし淮泗から京師へ運ぶ形とし、実行から1年で上供が6百万に達した。

塩鉄制度改革

  • 淳化5(994)年、西京作坊使に転じた。当初、産茶地の民は納税を全て現物で官に売っていたが良し悪しを区別せず全て権務に納めるため、商人は買おうとせず久しく放置されて焼却されることもあった。楊允恭は「民の利を奪って買い上げ、腐らせて捨てるのは良策ではない」と述べた。至道初、劉氏が縁江の権務(専売所)を廃し商人が江を渡って私的に取引することを許すよう建議した際、楊允恭は諸州の新旧の物が混ざり合い両河諸州の風土がそれぞれ異なるため、複数種を扱わなければ商人の利が少ないと考え、旧来通り江北に権務を置き色号を均一にして年次順に配分すべきと請うた。事は三司に付され塩鉄使陳恕らが楊允恭の議を是とし詔で採用された。楊允恭は発運使を命じられ、擘画(企画)を制置に改め、西京作坊副使李延遂・著作佐郎王子輿を共に発運使とした。巣県・廬江県が旧来廬州に隷属していたが道が遠く賊が多く民の輸送費用がかさむため、楊允恭はこの2県で軍を建てるべきと請い許され、無為を額とした。淮南18州軍のうち9州が禁塩地で、そこでは価格が官によって上下したため塩価の安い官に近い商人が増え、兵器を持って往来し盗賊化する者も現れた。楊允恭は法を一律に施行すべきと考え、全面禁止して官が吏を派遣して管理する制度に転換すべきと奏請、三司はこれに反対したが楊允恭は再三これを請い、太宗はついに従った。この年、巨万の利益を収めた。楊允恭は王子輿・秦羲と共に茶塩を主管し、多く条制を作って新法に改めた。
  • 真宗即位後、西京左蔵庫使に改まり、また川峡の鉄銭の弊害について、民の田税は昔銅銭1で治めていたが今は鉄銭1で治めるが、吏卒の俸給は昔銅銭1、今は鉄銭5、しかも実際の交易では鉄銭10が銅銭1に相当するため、民は田税で1を10として支払わされ官は9を失い、吏卒の俸給は1を5に増やしても官はさらに4を失い、吏卒が5を受け取り10で用いれば半分を失う、と論じ、先朝でこれを陳述したが李順の乱で議が中断されたことを述べ、饒信の銅の蓄積を荊から蜀へ運び、益州・䕫州に監を設け毎年鋳造すれば10年以内に全て銅銭に置き換えられると提言した。議は採用されなかったが、これを機に吏卒の俸給は十鉄銭を銅銭1と交換する制に改められた。まもなく通利軍知事兼黄御河発運使となり、西鄙の屯兵削減による輸送費節約が議論された際、楊允恭は崇儀副使竇神寶・閤門祗候李允則と共に馳せ赴き郡県山川の形勢を図示させられ、楊允恭は環州から積石を経て霊武まで7日の行程での輸送策として、諸葛亮の木牛の制に倣った小車での分担運搬を建議したが、議者に阻まれ実現しなかった。江淮塩鉄使陳恕がこれに強く反対したが詔で楊允恭の議に従うこととし康州刺史を加領した。咸平初、北辺での馬の売買に定価がなかったため楊允恭にその評価を主管させ、估馬司を設け印を鋳造して常制とした。王均の乱の際、上は南方に賊が集結することを懸念し楊允恭を荊湖江浙都巡検使とし内殿崇班楊守遵を副とし手厚い賜与を与えた。2年夏、病で子の大理評事可を乗り伝えで見舞わせ、7月に昇州で卒した、年56。次子に同学究出身・賻銭20万・絹100匹を賜り、また銭5万・帛50匹をその家に給し、揚州の官に第一区を造らせ賜った。
  • 楊允恭は膽幹があり方略をもって賊を捕らえる能力があった。王小波の乱の際、李順の兄自榮が綿竹に拠り土人の多くが脅されて従ったが、楊允恭の兄允升・弟允元が郷里の子弟を率いて力を合わせて破り、また王師の郷導として自榮を捕らえ剣門に献じた。王継恩がこの功を上表し、詔で允升に学究出身を賜り本県令に、允元に什邡令に任じた。翌年、召還され允升は右賛善大夫、允元は大理評事を授かった。可は咸平元(998)年、進士に及第し文才があり吏幹に優れ、しばしば試験に召され戸部塩鉄判官・洪州宣州潤州寿州潭州知事を経て都官員外郎に至り、虞部員外郎を告げられた。