樞密院での長年の実務
- 張質、字は守朴、博州高唐の人。若くして孤児となり兄贊に養われ、贊が樞密院の典謁であったことから兵房に隷属した。趙普・曹彬に評価された。太宗の河東征伐から鎮陽に帰り、曹彬が樞密院を典じていた頃、ある夜屯兵の調発を議した際、軍載の簿籍が道中に留まっていたが、張質は密かに兵数を計算し、後日実際の兵籍と照合すると全く差異がなかった。淳化中、本房副都承旨に何度も遷り、咸平初、左監門衛将軍・樞密副都承旨を授かった。従来、樞密の吏は年功順に補任されており、主事となっても職務に疎い者があった。景徳3(1006)年夏、内から公事三条が出され主事以下に詳決させることとなり、張質は礼房副承旨尹徳潤と共に御書院に宿して考選し、翌日上が親臨して閲視、選補された40余人のうち不合格の者を崇班・供奉官・奉職に降した者が十余人あった。張質は左屯衛大将軍とされ月奉を加給され、右神武軍・右衛二大将軍を歴任、大中祥符7(1014)年、都承旨に転じた。樞要にあること約50年、事務の練達と精敏さは並ぶ者なく未だかつて過失がなかった。本院の吏で都承旨に至った者は稀であり、上は元来張質の廉謹さを知っていたためこの職を授けた。かつて五代以降から国初にかけての軍籍の変遷の制を問われ利害を条具するよう命じられ、張質は『兵要』3篇を編纂して献じ、上はこれを見て称賛した。養生の術を好み老いても衰えず隠士・方士と交わったが公家の事は話題にしなかった。大祀・巡幸の際は行宮使を多く務め、あるいは巡検・供頓の管理を担った。天禧元(1017)年9月、承明殿での対面を待っていたところ突然中風で眩暈を起こし輿で帰り卒した、年74。子の大理評事純を衛尉寺丞、孫の思道を三班奉職とした。