宋史卷三百九 列傳第六十八 王延徳

西域使とその後

  • 王延徳、大名の人。若くして晋邸に給事し、太平興国初、殿前承旨に補し供奉官に再度遷った。6年、高昌国が使者を派遣して朝貢すると、太宗は遠人が誠を輸すことを重んじ、王延徳と殿前承旨白勲を使者として派遣した。夏州から黄河を渡り沙漠を経て伊州を経由し北庭を望むこと1万5千里に及ぶ道のりで、雍熙2(985)年、使から戻り『西州程記』を著して献じ崇儀副使を授かり御厨を掌った。翌年、正使を拝命し慶州知事に出、淳化2(991)年、代わって帰り折博倉監となった。王延徳は張斉賢と親しく、国子博士朱貽業を通じて張斉賢が倉の管理免除を求めていることを伝えたため上は怒り、「王延徳は倉の管理を自ら望んでおいたのに、まだ1月も経たぬうちに宰相に免除を懇願するのはなぜか」と王延徳を詰責した。王延徳は貽業を派遣した覚えはないと自陳したが、上は張斉賢が事実を隠していると疑い貽業を召したところ、貽業もまた否定した。張斉賢は自ら弁明することを恥じ頓首して罪を認めた。上は怒りつつも王延徳に懿州刺史を領させ寵愛を示した。5年、三司衙司磨勘憑由司を提点し、まもなく左屯衛大将軍・樞密都承旨を拝命、まもなく度支使を授かった。真宗即位後、左千牛衛上将軍・充使は元の通りとした。
  • 王延徳はかつて西域への使いで寒気に当たり汗をかいたため風痺の病を得、歩行が困難になった。咸平初、舒州団練使に出、鄆州知事に転じ青州に移った際、物品の市買で剰利を得たことに連座し左武衛将軍に降格された。長く病んで籍を落とされ、家人を代わって登聞鼓院に赴かせ休致(引退)を求めた。上は先帝への長年の奉仕を評価し左千牛衛上将軍に復し致仕させた。景徳3(1006)年、卒す、年68。王延徳は取り入りにより官を得、傾険で栄進を好み、当時の人々に嫌われた。兄の延之は乾徳6(968)年進士に及第し屯田郎中に至り致仕した。