宋史卷三百九 列傳第六十八 程徳玄

太宗擁立の因縁

  • 程徳玄、字は禹錫、鄭州滎沢の人。医術に優れ、太宗が京邑の尹であった頃召し置かれ押衙に任じられ厚く信任された。太祖崩御の夕、程徳玄は信陵坊に宿していたが、夜に扉を叩く音がして宮邸へ急ぐよう促す声を聞き、身支度もせず府に向かったが、府門はまだ閉じており三鼓(夜半)のため程徳玄自身も不審に思い佇んでいたところ、内侍王継恩が馳せて到着し遺詔を称して太宗の即位を迎えに来たため、程徳玄はこれに従って入り翰林使を拝命した。太平興国2(977)年、陳洪進が来朝した際、程徳玄が迎労を命じられ、船が淮河を渡る際に暴風が起きて衆が皆進むのを恐れる中、程徳玄は「我は君命を奉じているのになぜ危険を避けようか」と述べ酒を捧げ祝って進み、風浪は止んだ。3年、東上閤門使に遷り翰林司事を兼ね、この秋、代州刺史を領し太原征伐に従い行宮使となり、師の帰還後、判四方館事に改まり、まもなく本州団練使を領し本州防禦使を加えられた。
  • 5年、秦隴の竹木を市して筏で連ねて京師に入れる際、通過地で朝廷の制を騙って課税を免れさせ、高値で官に売ろうとしたことが王仁贍に発覚し、東上閤門使に降格され本州刺史を領した。陝府西南転運使左拾遺韋務昇と京西転運使起居舍人程能が判官であった際、当時裁(人物)は程徳玄らが部下で私売買を許していたことに連座、務昇と能は共に右賛善大夫に責め降され、載は将作監丞に降された。この冬、車駕の魏府行幸に伴い御営四面巡検を総括し諸軍への物資給付を掌り、程徳玄は近しい列に取り入り、上はその言を大いに信じたため追随する者が多かった。ある者が交遊が広すぎると言ったため崇信軍節度行軍司馬に出、翌年、慈州刺史を拝命し環州知事に転じた。当時西辺の酋豪が相次いで内附しており、詔で空名の告勅百道を程徳玄に与え、便宜により補授させた。まもなく病により致仕を求めたが優詔で許されなかった。淳化3(992)年、本州団練使に改まり邠州知事となり、半年もしないうちに再び環州を典じた。李順の西蜀への侵寇に際し鳳州知事に転じ鳳城・階州・文州等州の駐泊兵馬事を兼ね、慶州に転じた。咸平中、入朝すると真宗は座を賜り労い辺事を訪ねた。まもなく并州知事・并代副都部署を兼ね鎮州に転じ、代わって朝に帰り、景徳初、卒す、年65。大中祥符中、子の継宗が上章して恩典を懇願し、上はこれを憐れみ鄭州防禦使を特に贈った。兄の徳元は王府に仕え内酒坊副使に至り、継宗は東頭供奉官閤門祗候に、次子の継忠は内殿崇班となった。徳元の子賁は大中祥符5(1012)年に進士に挙げられ太常博士に至った。