河防と辺境統治
- 常延信、并州平晋の人。祖父の思は後周に仕え昭義・帰徳・平盧三鎮の節度を歴任、延信はいずれも牙職に補せられ和州刺史を領した。思が卒すると入朝して六宅使を授かり郡はそのままとした。建隆初、平州を領したが妻族との訴訟に連座して右監門衛副率に降格され、滑州の黄河堤を護る任を担った。開宝中、京の新城外の汴河南巡検となり、潼関監軍に出た。延信は関路の険阻さを理由に道路の改良と禁坑(危険な穴)の埋め立てを4十余万人の役工により奏請し実現、また通許鎮兵を監督、梓遂十二州都巡検使に改まり袍帯・銭百万を賜った。太平興国初、任期満了で再任され銭40万を賜った。当時亡命した卒が山林を拠点に賊となる例が多く、延信は徒を率いて300余人を捕殺した。また唐州・鄧州都巡検使となり、代わって帰り右清道右司禦二副率に転じた。雍熙3(986)年、鎮州以北への軍前芻糧輸送を督させられ、この冬、全州・邵州等六州都巡検使となり急ぎ赴任、羊牁六砦都鈐轄を兼ね右衛副率に遷った。誠州の蛮が帰順すると延信は溪洞に馳せ入りその要領を索め、蛮を追って古鎮を経て西延の大木諸洞に至り蛮人を慴伏させた。淳化中、襄州・鄧州・宋州・曹州等の都巡検使を歴任し左監門衛将軍に改まり、しばしば徒を率いて河防を修め、左領軍・左屯衛二将軍に改まり西京水南都巡検使を充てた。彭婆鎮・甲馬営で盗掠があった際、延信は馳せて赴き悉く捕らえた。咸平中、太康・鞏県二監軍を歴任、景徳2(1005)年、卒す、年64。