宋史卷三百七 列傳第六十六 宋摶

河東転運使としての功績

  • 宋摶、字は鵬挙、萊州掖の人、毛氏『詩』を治めた。開宝8(975)年、宋凖の主宰する貢部で及第し遂寧尉に補し、濰州司理参軍を歴任、白虎令に改まり、膳部員外郎の鞠礪がその才を薦め右賛善大夫・利豊監知事に遷った。藤州知事に転じ、殿中丞に改まり洪州通判となり、再び薦挙により召還され河北西路刑獄提点を命じられたが赴任前に左蔵庫監に改まり、国子博士に遷り西京留守司通判となり、便座での対面で銭30万を賜った。江南転運使に転じ度支員外郎に遷り、真宗即位後、司封員外郎・河東転運使に遷り、大通監の冶鉄が過剰に積み立てられ諸州軍の数十年分の鋳造に足りるとして採掘を権に停止すべきと上言、また諸州の丁壮を兵に科して戎備を増強することを請うた。在任は計11年に及び、河東は西北境に接し辺事が未だ止まぬ頃で屯師も甚だ多かったが、宋摶は漕運を整えることで幹治と称され、他州郡に転じる度に留任を乞われ、詔で褒賞された。夏州境に2度赴き、住民を発した際も入朝して奏事を行い意にかなった。任期満了で交代を求める度に、朝議は宋摶がよく職を果たすとして祠部郎中を加え金紫を賜った。
  • かつて代州承受使臣の王白を推薦したことがあったが、上は本来この職は軍政を視察し辺事を察するのみで、宋摶が保奏すべき対象ではないとし、諸路にこの後承受使臣の推挙を禁じた。景徳4(1007)年、三司勾院判官に入り、まもなく戸部副使となり、大中祥符初、刑部郎中に進み、まもなく契丹への使いに派遣され、契丹主が病であったため車で迎えられた。2年に卒す、年66。子の可法は太子中舎に至り、舜元は進士に及第した。宋摶が卒すると、舜元は筠州判官から著作佐郎に改まり、孫にも出身を賜った。