宋史卷三百七 列傳第六十六 凌策

出自と地方統治

  • 凌策、字は子奇、宣州涇の人、代々州県の官吏を務めた家。凌策は幼くして孤児となり独り志を励まし学を好んだが、宗族から当初評価されなかったため決意して長江を渡り姚鉉と共に廬州で学んだ。雍熙2(985)年、進士に挙げられ広安軍判官として起家し、西川節度推官に改まり、強幹と称された。淳化3(992)年、光禄寺丞・簽書両使判官を命じられ、代わって帰り左賛善大夫・定州通判を拝命、朱衣錦章の御書を賜り実奉(実給与)を歴給された。李順の乱の際、川陝の官選任は多くが辞退したが、凌策は蜀に3度赴任し民俗に通じていることから蜀州知事を命じられ、後に巴西が益州への輸送路の要衝であることから綿州に転じ、太常博士を加えられて朝に帰った。広南西路転運使を命じられ屯田員外郎に進み戸部判官に入り都官に遷った。
  • 嶺南から香薬を輸送するのに郵置卒万人を動員し200の分業拠点を要して民の負担となっていたため、凌策に規制を命じ、陸運を南安までとし舟で北へ運ぶことで役卒を800にまで大幅に削減し輸送費を大いに節約した。廬之翰が広州で廉潔でないとの評があり、凌策の幹名により職方員外郎直史館に任じてこれに代えさせ金紫を賜った。広から英州への道は吉河から板歩まで200里、盛夏には瘴気が起こり旅人の死者が8、9割に及んでいたため、凌策は英州大源洞から山を切り開き直接曲江に至る道を求め便利とされた。代わって帰り青州知事となり、東封に際して供給の労が評価され都官郎中に抜擢、三司三勾院判官に入り揚州知事に出た。

地方官としての評価と昇進

  • 淮南で凶作の年に盗賊が多発し、凌策は淮南東路安撫使を兼ねた。車駕の帰還に伴い進秩を停められた。洪州で水害があり知事の李元が病であったため、上は宰相と歴選し凌策に代えようとし、上は「南昌の水害は緊急で長吏の便宜処置が必要であり、外の計を伺う暇はない」と述べた。王旦が「凌策は事に当たって和平を保ち、任地に委ねられる人物」と言い、江南転運使として任命され、その選任の意を諭す詔が下った。饒州は産金地で商販が禁じられ、密告により逮捕された者が獄を満たしていたため、凌策は民の販売を認め官に税を課すよう求め民に便利とした。5年、右諫議大夫・集賢殿学士・益州知事を拝命。かつて凌策が及第した際、夢で人が六印を剣に加えるのを見たが、その後実際に剣外(蜀方面)に6度赴任し、当時異とされた。凌策は吏職に勤め事を精審に処理し至る所で治績があった。9年、蜀から代わって帰り、上は登用しようとしたが病になり、通進銀台司知事・門下封駁事に任じ京の刑獄を糾察させた。真宗はかつて王旦に「凌策には才用があり、蜀の統治は敏にして果断であった」と語り、王旦は「凌策は性質淳質で和平だが臨事には剛毅果断」と答え、上もこれを認めた。この秋、給事中を拝命し御史中丞を権知した。榷茶の法が甚だ弊害を生じていたため翰林学士李迪・知雑御史呂夷簡と共にその改善を議し旧制を緩和した。翌年、病が篤くなり朝謁できず、中使をしばしば派遣し薬を賜り存問し、益州への転任を再び求めた。まもなく工部侍郎に遷り、その願いに従い天禧2(1018)年3月に卒す、年62。子の将作監主簿瓘・琬を共に奉礼郎とし俸給を継続させた。凌策の兄簡は国子博士として分司南京に至った。